弐 人魚の呪い
あ、と千代は立ち止まった。
昨夜の雨で濡れた山道の前で首を捻っている人影がある。見知った影だ。
今日は紺色のティーシャツにパンツスタイルらしい。山に入るつもりなのか裾は折ってあり、くるぶし丈の靴下がスニーカーから少しだけ覗いている。
また道に迷ったのだろうか。そんな事を考えながら、千代は彼に近付いた。
「ツクモさん。おはよう」
「千代か。おはよう」
振り向いた月雲は相変わらず無表情だ。
「今日は学校は?」
「ないよ。休み。ツクモさんはこんな所で何してるの?」
「んー。この山に湖があるらしいんだけど、知ってる?」
こてんと首を傾げた月雲に、千代も首を捻った。
確かに湖はある。決して大きくはない湖だ。誰も湖の名を口にしないので、名前がついているのかどうかすら怪しい。
特別これといった特徴はない。綺麗でも汚くもない水の中を、どこにでもいそうな魚が泳いでいる。たったそれだけだ。
「知ってるけど。そこに行きたいの?」
「うん。おばさんが地図書いてくれたんだけど、よくわからなくて」
月雲が手にしていた紙切れを見ると、千代でもよくわからなかった。
うねうね曲がる曲線の両端に『朝霧』と『湖』があるだけだ。山中なので目印らしい目印が思いつかなかったのかもしれないが、これはちょっと酷い。
「よくここまで来れたね」
「うん。たまたま会ったお爺さんがつれてきてくれたんだ。親切だよね。用事があるらしいから、ここまでだけど」
「そっか」
千代は苦笑を零し、月雲を見上げた。
「ついてきて。案内してあげるよ」
「いいの?」
「うん。私も山に散策に来たんだ」
ひらりとワンピースを翻して笑うと、月雲は「助かるよ」と僅かに笑んだ。
既に舗装された道からは離れ、土がむき出しになった道とさえ呼べないような道を歩く。今朝上がったばかりの雨のお陰で土は湿り、少し滑りやすい。
好き勝手に並んだ木の幹にたまに手をつくと、手がしっとりと湿った。山の中はまだ雨の匂いが強く残っている。
「ワンピースで散策ってすごいね」
「楽だから。それに歩き慣れてるから、転んだりしないし」
「なるほど」
納得したような呟きの後、ズリッと間抜けな音がした。
足を止めて振り返ると、足を滑らせたのだろう、月雲が地面に膝をついていた。たいして怪我をした様子はないが、ズボンに泥がついてしまっている。
「ツクモさん、気をつけないと。急斜面だったら転げ落ちてるよ」
「ほんとにね。あー危なかった」
全く危機感を感じない呟きである。本当に危ないから注意しているのに、月雲はやはり無表情のまま立ち上がってパンパンと軽く泥を落とした。
溜息を吐き、千代は再び前を向いた。すぐ後ろからぴったりと足音がついてくる。
「ツクモさん、湖には何しに行くの?」
「仕事。千代こそ、大丈夫なの?」
「どうして?」
「湖には誰も寄り付きたくないんだって、おばさんが言ってたよ」
千代は足を止めた。
振り返れば、無表情の月雲がじっとこちらを見ている。
感情が読み辛いな、と今更思った。
「聞いたの?」
「まあ、うん。気味が悪いんだってね」
「私は平気だけど」
千代は前を向き、足を動かした。月雲もついてくる。
「千代は聞いた事ある?」
「歌? ないよ」
「そっか。聞けるといいね」
「……やっぱりツクモさん変」
足の下で踏まれた地面が鳴く。
呆れた視線だけを背後に投げると、月雲は無表情のまま少しだけ眉を上げた。
「そうだね。でも、変じゃないとおれ困るし」
「そうなの?」
「うん。食いっぱぐれちゃう」
一体どんな事情だ。淡々と答える彼にそう笑ってやろうとして……できなかった。そればかりか、千代はつい足を止めてしまった。
ぴたりと動くのをやめた千代の傍で、月雲は何かを探すように頭上を仰ぐ。いや、感じている。聞いているのかもしれない。――山中に響く、歌を。
「――人魚の歌はこんなに酷いものなのかな」
ぽつりと月雲が呟いた。
千代はゆっくりと彼の方を向き、未だ顔を上げたままの月雲をじっと見つめる。
「歌だって聞いたけど、これ歌じゃないよね。むしろ悲鳴だよ」
「……仕方ないんじゃないかな。苦しいんだから」
「そうか。それもそうだ」
うんうんと数回頷く月雲に、千代はぐっと眉間に皺を寄せた。
おかしい。奇妙だ。
奇妙なのは木々の間を低く這う歌ではない。目の前に立つ、この男だ。
「……怖くないの」
呟くように、けれど唸るように千代が問うと、月雲の視線がようやくこちらを向いた。
彼はきょとんと目を丸くして、僅かに首を傾げる。
「怖くないよ。千代は? 千代も怖がってるように見えないよ」
「……だって、ずっと前から知ってるもの。みんなが言ってたもの」
「そう。おれも事前に聞いていたし、怖くないよ」
果たしてそんな理屈が通るのか。
千代はここに暮らし、親しみもあるが、彼は他所者だ。その違いは大きいだろう。
動揺する千代からまた視線を外し、月雲は微かに木漏れ日を落とす木々を見上げた。
落ち着いた声音が突如語りだしたのは、一つの昔話だ。
「……大昔、ある人魚が誤ってとある湖にまで来てしまった」
湖に迷い込んだ人魚は、そのままその湖に棲みついた。
人魚が来てから村は雨に恵まれ、豊作が続いたので村人は大喜びして人魚を祀り上げた。人々は、いつしかその湖を『恵魚湖』と呼ぶようになった。
しかし、人魚の恩恵も長くは続かなかった。
ある日、土砂崩れが起き、湖の一部が土砂に埋もれた。人魚は逃げる事ができず、生き埋めになった。
お陰で雨の量も減り、凶作とはいかなくても実りは確実に減った。人魚が現れる以前の村に戻ったのだ。
村人は、人魚の事を次第に忘れていった。
淡々と、まるで本を読むかのように語る月雲を、千代はただ見つめるしかなかった。
そんな千代を、月雲の黒い瞳がちらりと見遣る。
「それから何百年もの月日が流れ、ある日、山に不気味な歌が響いた。地を這うような声で紡がれる歌は、人魚の怨念だ。村人は怯えた。慌てて湖の傍に祠を建てたが、歌は止まない。村人は考えあぐね、湖に近付く事をやめた。歌さえ気にしなければ、何も被害はなかったから。……それが、この村の現状。で、あってるよね?」
ただ純粋に問いかけるだけの瞳に、千代は無理矢理唾を飲み込んだ。喉が渇いている。
かろうじて頷き、睨むように月雲を見据えた。
「霧子から聞いたのか」
「まさか。自分で調べたんだ」
月雲は肩を竦める。
「多分、おばさんじゃなくても、みんな教えてくれなかったんじゃないかな。人は心底恐れるとそれを口にする事すら嫌がるから」
「そんな事、調べられるもんなの? こんな辺鄙な村の言い伝えなんて」
「さあ、他の奴は知らないけど。おれはこれくらい調べられないとね。仕事にならない」
仕事。昨日から気になっていた言葉だった。
彼は何度もその言葉を口にするのに、その詳細は一切語らない。
千代が子供だからという訳ではないだろう。彼の様子から見て、きっと誰にも告げようとはしていないはずだ。
口を引き結んで自分を見つめる千代を見て、月雲は困ったとでも言うように頬をかいた。
「……まあ、千代ならいいかな」
「え……」
「おれの仕事、教えてあげる。他の人には内緒だよ」
頬をかいていた指を口元に持っていき、ぴんと人差し指を立てる。
月雲はニイっと口端を持ち上げ、初めてしっかりと笑みを見せた。
「おれはね、人魚を助けに来たんだ」
人々を呪う歌が、次第に弱く小さくなっていく。
歌は木々の囁きに飲まれ、そして消えた。




