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人魚の鎮魂歌  作者: 岸部碧
本編 《人魚の鎮魂歌》
1/7

壱 千代の案内

 カタン、コトン、電車がゆっくりと緑の中を滑る。たった一両ではあるが、それでも人工物の少ないこの地ではあまりにも浮いている気がした。

 文明の産物が軋んだ金切り声を上げて、元々たいして出ていないスピードを落とす。気だるげな声が終点だと告げた。

 ぷしゅう、と気が抜けたようにドアが開いた。湿った空気が車内に忍び込んでくる。

 数少ない乗客がのろのろと降りる中、最後に降りた男は吹きさらしのホームで一度足を止めた。腕時計で時刻を確認すれば、午後一時を指している。

 無人の改札を抜けて、つまらなさそうに駅前に立っているバスの停留所の時刻表を見てみると、次のバスが来るまでまだまだ時間がありそうである。

 溜息を吐き、なんとはなしに空を仰ぐ。鈍色に輝く曇天は今にも落ちてきそうだ。

 男はもう一度溜息を吐いた。



  *



「雨か」

 千代ちよはぽつりと呟いた。

 今朝は綺麗に晴れ渡っていた空も昼過ぎには不機嫌そうに雲を敷き詰め、遂にぽつぽつと雨を降らせ始めた。

 山中の小さな村である。変わりやすい天気にも慣れっこで、なおかつ今は梅雨なのだから仕方がない。

 千代は鞄から折り畳み傘を出そうとして、やめた。少しだけ開けたチャックを閉め、さらさらと静かに降る水滴を浴びながら再び帰路を辿る。

 雨は嫌いではない。大雨は少し困るけれど、小雨はかえって気持ちがいい。

 明日は学校も休みだ。制服が多少濡れようが構わない。

 雨独特の匂いが鼻をくすぐる。なんだか気分も弾んできた。

 雨でテンションが上がるなんて、小さな子供くらいのものだ。そう笑われてしまうかもしれない。

 それを考えて、つい小さく笑みが漏れた。

 千代はスキップさえしそうな足取りでいつも通り舗装された道から脇道へ入ろうとして、ふと足を止めた。

 いつも通りの景色に見慣れない物がある。いや、物ではない、人だ。多分男の人だろう。

 彼は先月お婆さんが亡くなった空き家の前に立ち尽くしている。服装は淡い緑のシャツにジーンズといったラフなもので、髪も染めた様子のない黒だ。特に変わったところがある訳ではないのだが、雰囲気とでも言うのか、この近辺の人間ではないと一目でわかった。

 お婆さんの知り合いだろうか。亡くなった事を聞いていないのか。いや、彼は紙を持って首を捻っている。地図のようだ。道に迷っているのかもしれない。

 千代は方向転換をして、男に近付いた。なんであれ困っているのには違いないだろう。

 歩み寄ると、足音で気付いたのか、男がこちらを向いた。

 思っていたよりも若い。高校生、いや大学生だろうか。まだ子供の顔つきを残している。

「お兄さん、他所の人でしょ。何か困ってるみたいだけど、どうかしたの?」

「ああ、うん、道に迷った。一応地図は買ってきていたんだけど、途中でわからなくなった」

 やっぱり、と思いつつ、千代はどこへ行きたいのか尋ねた。

「朝霧って民宿なんだけど、わかる?」

 それを聞いて、つい苦笑してしまった。男は不思議そうに首を捻る。

 朝霧はここいらで唯一の民宿である。一見民家にしか見えず、たった二人で切り盛りする老夫婦の名が刻まれた表札の横に一応といった様子で『朝霧』と手作りの看板がちょこんとかけられている為、初めて訪れる人が見つけるのはなかなか大変だろう。そもそも、客など滅多に来ない趣味のようなものなのだから困る程度も知れているが。

 それを差し引いても、男が辿り着くのは難しかったかもしれない。何しろ、村の入り口のバス停から逆方向だ。あまり目印が少ない場所ではあるが、そうだとしても真逆に進むだろうか。恐らく方向音痴なのだろう。

「知ってるよ。案内してあげる」

「ありがとう、助かるよ」

 礼を述べる男は無表情だった。しかし感謝はしているのだろう、声音には僅かに安堵が滲んでいる気がした。きっとあまり表情が動かない人種なのだ。

 男はさっさと地図を畳んで、肩にさげたリュックのポケットに捻じ込む。

 それを見てから、千代は「こっち」と道を指して歩き出した。

「お兄さん、大学生? 何しに来たの?」

二十歳はたちだけど、大学には行ってないよ。仕事で来たんだ」

「仕事? こんな所に? どんな仕事?」

「うーん。必ずしも楽しい訳じゃないけど、嫌いではないよ」

「微妙に答えになってないよ」

「そう?」

 男は素知らぬ顔で首を傾げる。

 千代は笑いながら、雨のような仕事だと思った。千代も、雨が好きと言う訳ではないけれど、嫌いではない。

 そこでふと気付いた。雨が降っているのに男も傘をさしていない。

「お兄さん、傘ないの? 貸してあげようか」

「いいよ、そんなに降ってないし。なるべく両手が空いてる方が好きなんだ」

「ふうん。お兄さん変わってるね」

「そうかな。おれが変わってるなら、きみも多分変わってるんじゃない?」

「うん。よく言われる」

 あっけらかんに答えてみせると、男はきょとんとして、その内「ほんとに変」と小さく笑った。

 笑ったというよりは、表情を緩めた程度のものだったが、千代も笑った。彼の笑みに馬鹿にした色は少しもなかったから。

 雨が降っているからか、擦れ違う住人はいない。そもそも少数だ。当然である。

 千代の隣を歩く男はくるりと周囲を見回した。

「静かな村だね。きみに会うまで人を見なかった」

「お爺ちゃんお婆ちゃんばっかりだし、もう夕飯の支度をしてるんだよ。お年寄りは朝が早いから、なんでも早くなっちゃうんだ」

「なるほど。どうりでいい匂いがする訳だ」

 すん、と男が鼻を鳴らす。千代も真似るように鼻を鳴らした。雨の匂いと一緒に、どこかの家の焼き魚の匂いがした。

 それから村をほぼ横断するように進んで、ようやく目的の民宿に辿り着いた。

 表札の横に並べられた『朝霧』の文字に、「わからない訳だ」と男が納得したように頷く。千代はついくすくすと笑ってしまった。

霧子きりこおばちゃーん。ごめんくださーい」

「はいはーい」

 インターホンはないので、千代は鍵のかかっていない玄関の戸を開けて声をあげた。

 奥から女の声がして、ギシギシと床の軋む音が近付いてくる。現れた初老の女は、千代を見て可笑しそうに目を細めた。

「あらあら、千代ちゃんったら。また傘ささなかったの。待ってなさい、タオル持ってきてあげるから」

「平気だよ。それよりおばちゃん、お客さん」

「こんばんは。予約していたツクモです。遅れてしまってすみません」

「ああ、あなたがツクモさんね。心配してたのよー」

 ぺこりと頭を下げた男を見て、女が苦笑する。

 男はもう一度すみませんと呟き、僅かに苦笑した。

「いいのいいの、もう少ししたら探しに行こうと思ってたのよ。入れ違いにならなくてよかったわ」

「道に迷っていたところを彼女が助けてくれまして」

「あら、そうなの。千代ちゃんありがとう。お礼しないとね。ツクモさんも上がって上がって」

「おばちゃん、私もう帰るからいいよ。また遊びに来るね」

「そう、じゃあタオルだけ持って行きなさい」

 やんわり断る千代に女は物足りなさそうな顔をしつつも、パタパタと奥に引っ込んだ。

 そんなに濡れてしまっただろうか。千代は髪を一房とって、確かに濡れていると思った。小雨でも長時間浴びていれば普通に濡れてしまう。

「チヨって言うんだ」

「うん。千に何代目の代。お兄さんはツクモって言うんだね。九十九きゅうじゅうきゅう?」

「いや、月の雲でツクモ。読めないでしょ」

 頭の中で『月雲』と書いてみて、確かに読めないなと千代は頷いた。どう見てもツキクモだろう。

 またギシギシと音がして、女が駆け足で戻ってきた。手には花柄のタオルがある。

「はい、千代ちゃん。気をつけて帰るのよ。なんならあの人に送らせようか?」

「大丈夫だよ。心配しすぎ」

 千代はタオルを受け取り、眉を下げて笑う。こんな田舎では事件も起きようがない。

 女もそこは納得したのか、「足元には気をつけるのよ」と念押しするだけにとどまった。

「じゃあね、おばちゃん。ツクモさん、お仕事頑張って」

「うん。本当にありがとう」

 ひらひらと手を振ると、月雲も軽く手を振り返した。

 千代は玄関を出て、鞄から折り畳み傘を出す。先ほどまでよりも少し雨脚が強まっているようだ。

 パン、と傘を開き、千代は雨の中に飛び出した。

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