認識領域
毎日のように聞いている車内アナウンスを聞き流しながら、俺は窓の外をゆっくりとスクロールする風景をぼおっと眺めていた。
今日は放課後に何もする予定が無かったために、外はまだ比較的明るい。
やっと空が朱色に染まってきたぐらいだった。
眠……
あくびをかみ殺しながら、俺はそう思う。
しかし俺が降りるのは次の駅だ。ここで寝てしまったらまず間違いなく寝過すだろう。
俺は必死で睡魔と戦った。が、授業中ですらあっさりと負けてしまうにもかかわらず、ガタゴトと心地良く揺れる電車の上では、いささか分が悪い。
膝の上に置いた鞄に突っ伏した格好で、俺は深い眠りに落ちていった。
気が付くと、電車は見覚えのない駅で停車していた。
あー……やっちまったか。
少々後悔しながらも、俺は鞄をつかんで立ち上がり、降りるべき駅に戻る為に反対車線の電車を待つことにした。
しかし見れば見る程ヘンな駅だ。
案内版のひとつでもあって良さそうなものなのに、どこにもそんなものは見当たらなく、駅名を書いたプレートすらなかった。
そもそも、この駅の名前はなんと言ったか?
路線が変更されてすぐだったので、俺はその情報を頭の中に持ち合わせていなかった。
まあ、細かいことは気にしないことにしよう。
俺は近くの自販機まで行って缶コーヒーを買うと、それをもってベンチへと腰掛けた。
電光掲示板をちらりと見る。次の電車は16分後か。
俺は缶コーヒーの蓋を開けると、それをごくりと飲んで、一息ついた。
「ふぅ」
ため息をつきながら、二口目を飲もうとしたその時だった。
重い音を立てて俺が乗ってきた車線に次の電車がやってきた。
しかし俺が乗るべきなのはこの電車ではない。俺は一瞬振り返ったが、すぐに視線を元に戻……そうとして、電車を凝視した。
その電車から降りてきたのが、人ではなかったからだ。
いや、厳密に言えば人なのかもしれない。だがこいつらは皆一様に顔が無く、全身が異様に暗く、曖昧。
こいつらを人として俺が認識できるのは、その形からだけだった。
影……そう。影だ。
ふと思いついた表現だったが、まさに的を得た表現だったと言えよう。
「君」
不意に、影の一人が俺に話し掛けてきた。
「そこで何を待っているのかね?いつまで待っても電車はこないよ」
「え?」
言われて俺は再び電光掲示板を見た。何も表示されていない。
「君は君が君だと証明できるかね?」
いきなり、何を言い出すんだ、こいつは?
電光掲示板のことよりも、何故か俺はこいつの言葉のほうが気にかかった。
俺はブレザーの内ポケットから学生証を取り出すと、黙って影に差し出した。
「そんなものはただの情報に過ぎんよ。大事なのは他人に想ってもらうことだ。」
影は続ける。
「自分で自分を自分だと証明することなど、すべてが蒙昧な世界では誰にも
出来ないことだ。結局、“自分”とは他人からの認識の集合体に過ぎないのだよ。」
正直言って、意味不明。
「アンタ、何が言いたいんだ?」
「ここは“自分”を無くした者、他人に見捨てられた者の行き着くところ……どうやら、君は迷い込んでしまったようだね。だが心配することはない。すぐに元居た場所に帰れることだろう。しかし君が将来ここに来ないという保証は何処にも無いということも、覚えておきたまえ」
そう言って、影は他の影たちの向かった先へと足音も立てずに歩いていった。
毎日のように聞いている車内アナウンスが、俺に目的地の到着を告げた。
夢、だったのか?
しかし、俺の口にはしっかりと缶コーヒーの味が残っていた。
「他人からの認識、か。」
電車から降りた俺は小さな声でそう呟いた。
あの影の言いたかったことは朧げながら理解した。だが……
明日起きたら別人になっていて、周りの他人がそれを俺だと認めたら俺はそいつになってしまうのだろうか?
逆説的には、こういう事も言える。
そしてそこで、俺は自分で自分が自分だと証明できるのか?
答えは否だ。
人間なんてものは曖昧で不確実な生き物なのだろう。
所詮は他人の認識する領域可でしか生きられない……
それがあの影が言いたかった事なのだろうか?
もし、すべての人が記憶を無くしたら、世界はあの影達で溢れるのかもしれない。