「聖女失格だ、月を読むしか能のない女」と追放されました。――では、十二年分の天門開錠記録は全部お返ししますね?
「聖女失格だ、セレスティア」
大聖堂の月光広間。
敷き詰められた白大理石に、満月の光が青く落ちていました。
跪いたわたくしの頭上から、王太子レオンハルト殿下の声が降ってきます。
「月を読むしか能のない女に、神聖な儀式は任せられない」
殿下の隣には、蜂蜜色の巻き毛を揺らした少女が立っていました。
ミリアム・ソレイユ男爵令嬢。十七歳。
白い衣の裾を広げ、天に手をかざしている。指先が、光っているように見えました。
(……白布が月光を反射しているだけですね)
(入射角およそ四十三度。あの角度では門は開きません。開いたのは今夜ではなく、三日前の夜です)
「ミリアムは満月の夜に祈り、天門を開いてみせた。本物の聖女だ」
開きました。確かに開きました。
三日前の夜に。
わたくしの予報表で、今期最後の開錠窓として四年前から記録されていた、あの夜に。
けれど、わたくしは何も申し上げませんでした。
十二年、何も言わずに済ませてきたことですので。
「おまえは十二年、記録室に籠もって何をしていた? 埃をかぶった帳面に数字を書き連ねるだけだろう。あんなものは誰にでもできる」
「いつも開くのだから、誰がやっても同じだ」
――ああ。
その一文を、わたくしは前世でも聞いたことがあります。
台風が逸れた翌朝、観測所の窓口で。
「結局なにも起きなかったじゃないか」と。
当たり前に守られている人間は、守っている手の存在に気づかない。
そういうものだと、三十四年と十二年かけて学びました。
ですから、深く礼をいたしました。
「かしこまりました」
殿下が、少し拍子抜けした顔をなさる。
泣くとでも、縋るとでも思っていらしたのでしょうか。
「……なんだ、その返事は。言い訳はないのか」
「ございません。では、引き継ぎ書を置いてまいりますね」
静まり返った広間に、わたくしの声だけが落ちました。
誰も、その言葉の意味を考えませんでした。
殿下が、面倒そうに手を振ります。
「ああ、そうだ。記録室の古帳面など、全部焚きつけにしろ。神殿に埃を残すな」
――その瞬間。
十二年ぶりに、わたくしの睫毛が一度だけ震えました。
三千二百十四夜。
熱を出した夜も、母の葬儀の翌日も、雨に震えながら螺旋階段を登って書いた、あの数字を。
焚きつけ。
(……そうですか)
(では、もう――代わりに空を見てさしあげるのは、やめます)
「承知いたしました、殿下」
老いた声が、広間の端で震えました。
大神官ガルディアス猊下が、杖を突いて一歩前に出る。
「殿下。……それだけは、なりませぬ」
「黙れ。神殿の掃除まで口を出すな」
猊下は口を閉じました。
白い髭の下で、唇が小さく動いたのが見えました。
わたくしは立ち上がり、背を向けました。
白い衣の袖口は、擦り切れています。
腰に提げた角度測定儀が、歩くたびに小さく鳴りました。
背後で、ミリアム様の祈りの声が響き始めます。
美しい、歌うような声でした。
(今夜は開きませんよ)
(次も、その次も、開きません)
(――なにしろ、次の開錠窓は、二年と八ヶ月後ですので)
◇
記録室の扉を開けると、埃と古い紙と、インクの匂いがしました。
九歳のとき、わたくしはこの部屋で前世を思い出しました。
埃をかぶった古帳面をめくった瞬間、脳裏に落ちてきたのは、気象台の観測室の匂いでした。
月岡澪、三十四歳。地方気象台の観測官。
台風接近の徹夜明け、帰宅途中に撥ねられて死んだ女。
十二年、誰にも褒められず、外れれば叱られる仕事をしていた女です。
(二度目も同じ仕事とは、神様もよほど他に配役がなかったとみえます)
棚には、革表紙の観測原簿が並んでいます。
全四十二巻。
月齢。南中高度。雲量十段階。霧の発生時刻。湿度。気温。風向。
三千二百十四夜分。
この国の誰も気づいていません。
聖女の祈りが門を開けているのではない。
わたくしが、『門が開く夜に、聖女を立たせていた』のだということに。
天門は、陽光では一切反応しません。
月光のもと、月齢と高度と雲量と霧と湿度が特定の条件で噛み合った、年に数えるほどしかない夜にしか開かない。
その夜を割り出すのが、月読みの仕事でした。
祈りの文言も、白い衣も、荘厳な鐘も、全部演出です。
本体は、この手書きの表一枚。
『開錠窓予報表』。
わたくしは机に向かい、新しい紙を一枚置きました。
炭筆は、十二年使って短く折れています。
殿下は『引き継ぎ書を置け』と仰いました。
ですから、置いていきます。
一行だけ、書きました。
〈次の開錠窓:不明。祈りによってお開けください〉
(嘘は、一つもございません)
(わたくしにはわかります。けれど、あなた方には『不明』でしょう?)
紙を机の中央に置き、文鎮を載せました。
それから、四十二巻の原簿を布に包み、背負い袋に詰めました。
石のように重い。背骨が軋みました。
扉のところで、小さな影が震えていました。
「……先生」
ノエル。十一歳。神殿の下働き。
煤けた亜麻色の髪を布で包み、継ぎ接ぎの前掛け、霜焼けで赤い指。
二年前の冬、塔の階段で凍えていたこの子に外套を掛けて、わたくしはこう言いました。
「暇でしたら、空を数えてみますか」と。
この子が覚えたのは、祈り方ではありません。
雲の数え方です。
「泣きませんよ」
ノエルは目を真っ赤にして、そう言いました。
「わたし、泣きません。……泣いてる暇ないので」
布包みを押しつけられました。
黒パンと、干し肉。炊事場から盗んできたのでしょう。
「先生。わたし、数え続けます」
「……なぜ」
「先生が戻ってきた時に、記録に空白があったら、困るから」
――困ります。
困るのです、本当に。
観測記録というのは、一夜でも欠けると、そこだけ永遠に取り返しがつかない。
わたくしはしゃがんで、短く折れた炭筆をこの子の手に握らせました。
「では、お願いしますね」
「……はいっ」
「雲量は、空を十に割って数えます。迷ったら、多いほうに寄せてください」
「多いほうに、寄せる」
「ええ。外れるなら、安全側に外れなさい。これが最初の心得です」
夜明け前の城門を出るとき、振り返りませんでした。
背中の袋は重く、肩紐が食い込みます。
四十二巻、三千二百十四夜。
この重さだけが、わたくしの十二年の実体でした。
北へ向かう道の先に、霜の降りた野が白く広がっていました。
(さて)
(残業代の未払い分は、国家滅亡という形で回収させていただきます)
◇
北の辺境、霜降り村。
戸を叩いた夜、開けてくれたのは曲がった背の老婆ひとりでした。
村の誰もが『王都から来た厄介者』を警戒する中、彼女だけが閂を外した。
「痩せた娘っ子が、えらい重い荷を背負っとる。中身は何だ」
皺の中で、眼光だけが異様に鋭い。
「帳面です。四十二巻」
「読めん。食えんのか」
「食べられません」
マルタ婆さんは、しばらくわたくしを眺めてから、顎をしゃくりました。
「あんた、字が書けるのか」
「書けます」
「なら井戸の水位も書いてくれ。うちの村は誰も書けん」
「……かしこまりました。それが、わたくしの新しい辞令ですね」
蕪のスープと、黒パンと、焚き火。
この村では、誰もわたくしに祈りを求めませんでした。
聖女とも呼ばれませんでした。
求められたのは、ただ『役に立つこと』だけです。
(なんと楽なことでしょう)
五日目の朝。
洗濯物を抱えた若い母親に、わたくしは申し上げました。
「奥さん、午後から崩れますから、洗濯は朝のうちに」
「こんな晴れとるのに、何を言うとる」
マルタ婆さんが鼻で笑います。
「西の山の霧の降り方が、昨日と違います。昼過ぎに雨になります」
昼過ぎ、雨になりました。
その夜、婆さんは孫たちを集めてこう言いました。
「……降りよったな。おい、孫ども集まれ。今日からこの娘っ子の言うことを聞け。神様より当たる」
(神様と比較されるのは、前世含めて初めてですね)
以来、村の子どもたちが毎朝やって来るようになりました。
「ねえ、明日、洗濯していい日?」
「午前は大丈夫です。午後は風が出ますから、重いものは干さないで」
「山菜採り、行っていい?」
「明後日になさい。明日は霧が出ます。迷いますよ」
十日目、雹の予報で麦を守りました。
十九日目、霧の予報で子どもの迷子を防ぎました。
二十六日目、凍結の予報で、老人の転倒が三件から零件になりました。
前世では、ついに叶わなかったことです。
『役に立つ天気予報』。
数字が、人の生活に直接触れる。
観測が、誰かの明日を変える。
木椀の縁を両手で包むと、蕪のスープの湯気が顔に当たりました。
「薄着すんな。数字書く前に飯食え」
「……いただきます」
「先生とは呼ばんぞ。娘っ子だ」
「はい」
わたくしは、笑っていたと思います。
十二年ぶりに。
夜、小屋の外に出て空を見上げました。
癖です。もう職務ではないのに、月齢と雲量を数えてしまう。
月齢二十一。雲量三。入射角、約三十八度。
(開きません)
(今夜も、明日も、来月も、来年も)
炭筆を取り出し、新しい帳面に書き込みました。
〈霜降り村・第一夜。月齢二一。雲量三。北の風。井戸水位、昨日比マイナス二指〉
記録は、続きます。
わたくしが、続けると決めたので。
◇
――王都・王宮魔道具管理局。
「本日時点、結界魔力備蓄残量、七十二日分」
痩せぎすの眼鏡の男が、書類の束を抱えて淡々と読み上げる。
ハウゼン子爵リュドガー、四十二歳。睡眠不足の青白い顔。
「前回開錠より経過日数、ゼロ。以上」
「わかっている。ミリアムが祈れば開く」
玉座の間で、レオンハルトは退屈そうに答えた。
◇
三十日目。
月光広間。満月。
ミリアムは手を掲げ、歌うように祈った。
一時間。二時間。
天門は、開かなかった。
「……え。どうして。わたし、ちゃんと祈ったのに……」
「聖女様のご体調が優れぬのだ」と、取り巻きの神官が言い繕った。
◇
四十二日目。
「残量四十二日分。王都北区の街灯魔道具、稼働率六割に低下」
「六割? 修理すればいいだろう」
「……殿下。魔道具は壊れておりません。流れてくる魔力が、ございません」
◇
四十五日目。
ミリアムは祈る時間を倍にした。
断食し、裸足で石床に跪き、声が嗄れるまで祈った。
開かなかった。
彼女は本気で祈っていた。手など抜いていなかった。
ただ、祈りは最初から門と無関係だった。それだけだ。
◇
六十日目。
「残量二十七日分。国境第三砦より魔物目撃報告、十四件。第七村落、被害。死者、六名」
リュドガーの手が震えていた。
「……六名」
「申し上げにくいのですが、聖女様の祈祷日程の再確認をお願い申し上げます」
「ミリアムは毎晩祈っている!」
「存じております。……ですが、開いておりません」
◇
七十二日目。
「残量、ゼロ」
玉座の間の空気が、音を立てて凍った。
「結界、落ちました」
王都じゅうの魔道具の灯りが、一斉に消えた。
昼の、真っ白な陽光の下で。
誰も気づかないほど静かに、この国を三百年護ってきたものが止まった。
「……どういうことだ。なぜ開かない! 満月は何度もあった! ミリアムは祈った!」
「殿下」
老いた声が割って入る。大神官ガルディアス。
「月読み室より上がってきた『開錠予定日通知』は、十二年間、一度も外れませんでした」
「……は? 局長、確認する。何度外れた」
リュドガーは、まっすぐに顔を上げた。
三年、言えなかったことを、今やっと言える男の顔だった。
「ゼロ回です。三千二百十四夜、全て一致しております。わたくしの備蓄計画は、あの通知を前提に組まれておりました」
玉座の間が、しんと静まる。
「殿下。我々は十二年間、一人の人間の計算で生きておりました」
レオンハルトの顔から、血の気が引いていく。
『いつも開くのだから、誰がやっても同じだ』
自分の声が、頭の中で反響した。
違った。
『誰がやっても同じ』だったのではない。
――『あの女が、開く夜を選んでいた』のだ。
「……記録室は」
「殿下のご命令により、空でございます」
「帳面は!」
「焚きつけにせよ、と」
王太子は、玉座の前で膝から崩れた。
◇
王都の北、霜降り村。
薪を割る音が、冬の空気に乾いた音を立てていました。
王家の使者が馬を降り、息を切らせて叫びます。
「セレスティア様! 王太子殿下の御名において、王都へご帰還を――」
わたくしは、手を止めませんでした。
斧を振り下ろす。薪が割れる。
「お断りします」
「なっ……」
「わたくし、聖女失格ですので」
使者の前に、杖を突いた老婆が立ちはだかりました。
地面を杖で、がつん、と叩く。
「うちの天気見が要るなら、相応の礼を持ってこい。手ぶらで来るな、たわけ」
わたくしは、もう一本薪を立てました。
(三点ほど、申し上げたいことがございますが――)
(まだ、その時ではありません)
◇
大神殿、審問の間。
魔道具の灯りは落ち、蝋燭だけが燃えていました。
三百年ぶりに、この国は火で明かりを取っています。
王命により連行されたわたくしは、石床の中央に立っておりました。
「国を見捨てる気か、セレスティア」
上座で、レオンハルト殿下が声を張られます。
頬が削げ、目の下が落ち窪んでいらっしゃいました。
「民が死んでいる。六十四名だ。おまえには民を救う義務が――」
「申し上げたいことが、三点ございます」
わたくしは、三本の指を立てました。
広間が、静まりました。
「一点目」
指を一本折る。
「天門が開く条件は、祈りではございません」
「なに……?」
「条件は、月光の入射角が門面に対して十七度以下であること。それだけです」
「でたらめを言うな! 天門は竜神より賜った神事であり――」
「その竜神が、お書きになっています」
わたくしは振り返り、祭壇の背後の石壁を指しました。
三百年、誰もが背を向けて祈ってきた壁。苔と蝋の煤に埋もれた、彫り文字。
「竜神期古語でございます。読み上げてもよろしいですか」
返事を待たず、読みました。
「〈月光の入射角、門面に対し十七度以下なるとき、門は応ず〉」
「〈祈りは、人の心を整えるためのものなり。門はこれを聞かず〉」
――〈門は、これを聞かず〉。
広間の空気が、割れました。
「う、嘘だ」
「嘘かどうかは、猊下にご確認を。古語辞書は神殿書庫の第三棚です。十二年前に、わたくしが埃を払いました」
白髭の老人が、よろめきました。
杖が、からん、と石床に落ちる。
三百年、この壁の前で祈り続けてきた男が、膝をつきました。
「……我らは」
老いた肩が震えています。
「読めもせぬ文字の前で、三百年、祈っておったのか……!」
「二点目」
指を二本目、折ります。
「ミリアム様が天門を開かれた、あの夜について」
蜂蜜色の巻き毛の少女が、びくりと肩を揺らしました。
「ひっ……」
「あの夜は、わたくしの予報表で『今期最終の開錠窓』として、四年前から記録されていた日です」
わたくしは原簿の一冊を開き、該当の頁を掲げました。
「日付。月齢十五。雲量一。南中高度七十三度二分。入射角、十六度五十一分」
「全て、一致いたします」
「そ、そんなの聞いてない……! わたし、言われた通りにしただけ……! 祈れって言われたから、祈っただけで……!」
(ええ)
(存じております)
(あなたは、誰にも教えてもらえなかっただけです)
「あの夜は、どなたが立っても開きました」
わたくしは静かに申し上げました。
「犬を立たせても開きました。誰も立たせなくても、開きました」
「な、なんだと……!?」
殿下の声が裏返ります。
「『聖女の奇跡』は、ただの当たり日です。――局長。わたくしの開錠予定通知は、十二年間で何度外れましたか」
壁際の痩せた男が、計算盤を抱えたまま一歩前に出ます。
「ゼロ回です。三千二百十四夜、全て一致しております。……誓って、申し上げます」
「そして、三点目」
わたくしは、三本目の指を折りました。
広間の全員が、息を止めたのがわかりました。
「これが、最大の問題でございます」
「……言え」
「次の開錠窓は、すでに四十日前に過ぎております」
「……は」
「わたくしが追放されて三十二日目の夜。入射角十六度四十分、雲量二。開きました。――誰も立っていませんでしたので、誰も気づきませんでしたが」
「待て。次は、次はいつだ」
声を、落としました。
「二年と、八ヶ月後です」
時が、止まりました。
「ま、待て、どういうことだ、二年……? 二年、結界なしで……」
「十七度条件を満たす月の軌道が、それまで巡ってまいりません。これは祈りでも、金でも、王命でも動きません。天体ですので」
「つまり、あなた方は」
わたくしは、まっすぐに殿下を見ました。
十二年、一度も見返さなかった顔を。
「――『開く夜』を一度、捨てたのです」
沈黙。
誰も、何も言いませんでした。
わたくしは、原簿を胸に抱え直しました。
「焚きつけにしろと命じられた、あの古帳面がなければ」
「誰にも、わからなかったことですが」
レオンハルト殿下は、膝をつきました。
金髪が垂れて、顔が見えません。
「……おまえの帳面を、俺は、一度も、読んだことがなかった」
「存じております」
わたくしは答えました。
「十二年、どなたも読みにいらっしゃいませんでしたので」
◇
石床に、原簿が散らばっていました。
審問の騒ぎの中で、誰かが袋を蹴ったのです。
四十二巻のうち十数巻が、革表紙を開いて落ちていました。
わたくしが拾おうとしゃがんだとき。
黒い影が、先に動きました。
広間がざわめく。
誰もが身を引く、その男が前に出たからです。
オルヴィス・ハルヴェイン。
王弟にして北方守備隊長。二十九歳。通称――『氷の将軍』。
身の丈は常人より頭ひとつ高く、黒髪に銀の筋。
蝋燭の灯を受けて、瞳孔が縦に細く光っていました。竜人の血です。
「……拾う。動くな」
その巨漢が、無言で膝を折りました。
散らばった帳面を一冊ずつ、両腕にかき集めていく。
――赤子を抱くように。
紙の角を折らないよう、泥のついた表紙を袖で拭いながら。
「あ、あの、将軍。それはわたくしが――」
四十二巻すべてを腕に抱え上げ、立ち上がり、それから初めて。
誰とも目を合わせないまま、ぼそりと言いました。
「お前の帳面は、俺が十二年、焚きつけにされないよう見張っていた」
「……え」
「記録室の鍵は、追放の翌朝に俺が替えた。中身は北方守備隊の兵站庫に移した。焼却命令書は、俺の机の一番下だ。未処理だ」
淡々と。報告書を読むような口調でした。
わたくしは、息を吸うのを忘れました。
その顔に、覚えがあったからです。
十二年。毎夜、塔の螺旋階段を登りました。
踊り場には、いつも毛布が置いてありました。
湯気の立つ茶が、置いてありました。
雪の夜には、階段の氷が削ってありました。
誰も、名乗りませんでした。
「……あの、塔の踊り場の毛布は」
「俺だ」
「お茶も」
「俺だ」
「雪の夜、階段の氷が削ってあったのも」
「俺だ」
「……どうして、一度も名乗ってくださらなかったのですか」
「邪魔をしたくなかった。……というのは、半分だ」
「半分」
「話しかける文言を、十二年考えていた。まだ決まっていない」
(……十二年)
(十二年、考えて)
「ちなみに」
帳面を抱えたまま、彼は言いました。
「三千二百十四夜のうち、三千夜は俺も起きていた」
広間が、ざわ、と揺れました。
「……残りの、二百十四夜は」
「国境に出ていた。……すまん」
わたくしは、固まりました。
十二年、涙を落としませんでした。
追放されても、侮辱されても、落としませんでした。
帳面を焚きつけにしろと言われた夜ですら、睫毛が震えただけでした。
それなのに。
「冷える。着ろ」
彼は、外套を脱いでわたくしの肩に掛けました。
竜の体温なのでしょうか。異様に温かい布でした。
「あの、まだ審問の最中では」
「知らん。――猊下。この女を罰する条文は、この国にあるか」
ガルディアス猊下は、濡れた目を上げ、首を振りました。
「……ございませぬ。むしろ、我らを罰する条文が要ります」
「結構」
オルヴィス様は、兄である王太子のほうを一度も見ませんでした。
代わりに、わたくしを見下ろして、ひどく不器用に、こう仰いました。
「……俺は、十二年間、何もしなかった。北の雪だけ守ればいいと思っていた。お前が跪かされた夜も、動けなかった」
「今日が、十二年遅れの、最初の一回だ」
帳面を抱えた腕が、少し震えていました。
わたくしは、肩の外套を握りしめました。
「……あの、オルヴィス様。お茶は」
「言え」
「少し、ぬるめが好きです」
彼は、三秒ほど沈黙しました。
それから、鉄面皮のまま、低く言いました。
「……十二年間、熱すぎたか」
「いいえ」
わたくしは、笑ってしまいました。
「ちょうど、よかったです」
◇
二年八ヶ月。
九百七十三日。
それが、この国が結界なしで耐えねばならない日数です。
「お受けする条件を、三点申し上げます」
わたくしは、羊皮紙を広げました。
王太子なき玉座の間。国王陛下は病床、実務は大神官と王弟、そして魔道具管理局が握っています。
「一点目。月読みを聖女職から切り離し、独立した『観測官職』とすること。報酬を定め、後継者育成の権限と予算を観測官に与えること」
リュドガー子爵の眼鏡が、きらりと光りました。
「……予算、人員、課程、地方配置。三年ぶりに、まともな仕事ができます」
羽ペンを握る手が、興奮で震えています。
「二点目。弟子は、わたくしが選びます。――ノエル。前へ」
「は、はいっ」
十一歳の下働きが、粗末な綴じ帳を抱えて進み出ました。
「猊下。この子の帳面を、ご覧ください」
ガルディアス猊下が頁をめくり、息を呑みました。
「……拙い字じゃ。数字が震えておる。……七十二夜。一夜も、欠けておらん」
「わたくしが不在の七十二日間、この子は毎晩ひとりで塔に登りました。そしてこの記録はこう示しています」
わたくしは頁を指しました。
「条件は観測されていた。祈りも捧げられていた。それでも、門は開かなかった」
「――祈りで開くという説は、この十一歳の帳面一冊で死にます」
広間が、静まり返りました。
「……三百年が、下働きの炭筆に終わらされたか」
「よって、ノエルを『初代・月読み観測官補』に指名いたします」
「せ、先生……っ」
「泣かないと言ったでしょう」
「い、言いました……っ」
「三点目」
わたくしは、最後の指を折りました。
「祈りの演出を、廃止します。開錠は『神事』ではなく『予報と計算』として、全国に公開します」
ざわめき。
「観測所を各地に置き、暦と予報表を印刷して配ります。雲量の数え方を、村に教えます。――誰にでもできる仕事にします。わたくしが死んでも、国が滅ばないように」
白髭の老人が、呻きました。
「……信仰を、数字に落とすのか」
三百年の権威を背負った声でした。
わたくしは、微笑みました。
「ええ」
「そのほうが、人が死にません」
猊下は、長く、長く沈黙なさいました。
やがて、落とした杖を自ら拾い上げ、よろめきながら祭壇の前に立ちました。
「…………儂は、長生きしすぎたのう」
白い髭が震えています。
「本日をもって――天門儀式を、神事より外す」
老人は、自らの手で三百年を下ろしました。
「代わりに、儂に一つ職を与えよ。古語の翻訳と、この子らに文字を教える役目を。読めもせぬ文字の前で祈った罪は、読めるようにして返す。それしか思いつかん」
広間の端で、ずっと黙っていた男が口を開きました。
「妥当だ」
それだけでした。
それだけで、議論は終わりました。
◇
処遇が告げられました。
レオンハルト殿下は廃嫡。
北方の砦で、結界補修の労役。
石を積み、凍えながら、作業指示書を読む日々が始まります。
――その指示書は、かつて彼が焚きつけにしろと命じた帳面の、写本です。
ミリアム様は、聖女位を剥奪されました。
「……わたし、どこにも、行くところが」
行き場のない十七歳の少女が、広間の隅で震えていたとき。
小さな手が、その袖を引きました。
「あの。うち、人手が足りないんです」
「え」
「雲、数えられますか。空を十に割って、雲のあるところを数えるだけです」
「……わたし、数、あんまり」
「教えます」
十一歳が、十七歳を見上げて言いました。
「わたしも、先生に教えてもらいました」
◇
その夜。
わたくしは久しぶりに、塔の螺旋階段を登りました。
踊り場に、毛布がありました。
茶が、置いてありました。
湯気が、ちょうどよい具合に立っていました。
(……ぬるめ、ですね)
振り返ると、階段の下の暗がりに、大きな影が立っていました。
灯りを持っていません。
竜人の夜目なら、要らないのでしょう。
――ああ。
十二年、わたくしの観測の邪魔をしないために。
「冷える」
影が、短く言いました。
「はい」
わたくしは、茶を一口飲みました。
温かくて、少し、しょっぱい味がしました。
◇
二年と、八ヶ月後。
九百七十三日目の夜。
山頂の観測塔。
吐く息が白く、手袋をしていても指先がかじかみます。
「せ、先生」
十四歳になったノエルが、角度測定儀を覗き込んだまま、声を震わせました。
背が伸びました。霜焼けは、もうありません。
腰には、わたくしと同じ方位磁針と携帯硯。
「雲量、二。南西に薄雲、月面にはかかりません。湿度低し、霧の発生ありません」
「落ち着いて。入射角は」
ノエルが測定儀の目盛りを読みます。
一度、息を吸って。
「……十六度、四分。開錠窓です!」
九百七十三日。
魔道具の灯りは落ち、人々は火を使いました。
国境には兵が立ち、魔物の侵入は『結界ではなく人の手』で防がれました。
死者は出ました。けれど、予報に基づく避難と配置で、想定の四分の一に抑えられました。
その間、わたくしたちは数えていました。
毎晩。欠かさず。
観測所は十一箇所に増えました。
地方観測員・第一号のマルタ婆さんは、七十五歳になっても井戸の水位を几帳面に記録しています。「婆に辞令も何もあるか」と笑いながら。
「先生」
「ええ」
「……祈りますか」
わたくしは首を振りました。
「いいえ」
月を見上げます。
青白い円が、山の稜線の上に、ゆっくりと上がっていく。
「――では、お願いしますね」
「はい」
ノエルが記録簿を開き、炭筆を構えました。
短く折れた、わたくしが譲ったあの炭筆です。
祈りの言葉は、ありませんでした。
荘厳な鐘も、白い衣も、歌も。
少女が、時刻を書き込む音だけがしました。
〈第四刻三十二分。入射角十六度四分。雲量二――〉
◇
天門が、音もなく開きました。
国境山脈の頂で、巨大な扉が青い光を溢れさせる。
光は川のように稜線を流れ落ち、森を抜け、野を渡り、村を、町を、王都を包みました。
二年ぶりに、結界が張り直されました。
「……開きました。先生、開きました! 麓の灯りが、ぽつぽつって……!」
小さな、小さな黄色い粒が、ぽつ、ぽつ、と野に散っていきます。
ノエルが、記録簿を抱えたまま泣いていました。
「先生。わたし、三千夜ぶん、書けますか」
わたくしは、この子の頭に手を置きました。
「書けますよ」
「わたくしも、そうでしたから」
◇
塔を降りると、下に大きな影が立っていました。
毛布を抱えて。灯りは、持たずに。
「終わったか」
「はい。開きました」
「見ていた。……茶だ」
焚き火のそばに、木椀が並んでいます。
「椀が、四つございますね」
焚き火の向こう側。
毛皮を着込んだ蜂蜜色の巻き毛の娘が、おずおずと記録板を差し出しています。
「……あの。ノエル先輩。今日の雲、七です」
「麓の観測点ですね。了解です、書き留めます」
「は、はい!」
ミリアムは、ぺこりと頭を下げて、焚き火のそばにしゃがみました。
誰にも持ち上げられていない自分の仕事を、二年かけて手に入れた娘の背中です。
わたくしは、何も言わずにそれを見ていました。
「食え。数字書く前に飯食え、と婆さんが言っていた」
オルヴィス様が、黒パンと、蕪のスープの椀を押しつけてきます。
「……あの方の口癖です」
「覚えた」
木椀を両手で包むと、湯気が顔に当たりました。
(前世でも、この世界でも、十二年。当たれば忘れられ、外れれば叱られる仕事でした。それが今、山頂の焚き火のそばで、椀が四つあります)
(残業代、回収完了ですね。利子つきで)
「セレスティア。……文言が、決まった」
「十四年半、かかりましたね」
「長かった」
「ええ」
わたくしは、茶を一口飲みました。
「……お茶、ぬるめでした。ちょうどよいです」
◇
翌朝。
観測塔の最下層。
封じられていた石扉を、ようやく開けました。
結界が戻り、魔力錠が解けたのです。
中には、初代の観測記録――原簿の第一巻が、硝子の箱に納められていました。
わたくしが九歳のとき、前世を思い出したあの日に開いた帳面。
懐かしくて、そっと表紙を開きます。
表紙裏。
そこに、見覚えのある筆跡で、一行だけ書かれていました。
――わたくしの字でした。
けれど、わたくしには、これを書いた覚えがありません。
〈次の次の開錠窓に、門の向こうから来る者あり〉
炭筆の跡は、まだ新しい。
次の次の開錠窓。
計算すれば、十一年と四ヶ月後。
(……門の、向こう)
(天門の向こう側に何があるかなど、三百年、誰も記録していないのですが)
わたくしは、腰から炭筆を抜きました。
新しい頁を開き、日付を書きます。
「……では」
「記録いたしますね」




