氏之(持隆)の興亡7
この文書では天文廿ニ年癸丑八月十七日となっています。
後世の方の作品です。
天文廿二癸丑八月十七日相州卒す(※細川持隆の没年・法名に関するメモとみられます)任運の作(以下、本文)還りて思う、往時の月僧、終に秋春に替わる。北参(北山・京都か)の十六箇の家、何んぞ一光を争わん。万将、遥かに国法に違う。貴家、高閣、政皆な離る。初めは解く、由って寛文(天文の誤記か)六年の八月下旬。(細川)右馬頭、相済むといえども、家中、政を執る。これ因って彼の満名(みつな/満元らの類か)、宿る。濫に宝器を盗む。これ一事の嫡子。左馬頭これ、経理これ。沈淪(ちんりん/没落すること)して、在り。質に属す、万民これ。一応は、海壌これを嘆く。任雅、再玄に非ず。民、これを思う、年来。主、これ、ただ僕に違う。二十五の郡、これ亦た。主、実に大功なきに、忽ちにこれ広長の髪を変ず。貴州(貴国)、相考う。畢竟、これ亡魂のなせる者か。又、世、人間の事、これ一応。高脱、交気を和らぐ、両家。これ、信実の家を廃絶す。これ、備前守、輒まこれを聞く。これ、富海の王。
現代語訳(大意)(冒頭メモ:天文22年(1553年)癸丑8月17日、相州(細川持隆の官位・刑部大輔を指すか)が亡くなった。運に任せた(世の無常の)詩作である)振り返って往時を思えば、月日が流れるように、いつの間にか季節は秋から春へと移り変わってしまった。(京都の)北山や、平島の「十六箇庄」にいた足利将軍家を巡る名門の家々が、どうして一つの権力の光を争う必要があったのだろうか。多くの武将たちは、遥かに国の法(秩序)に背いてしまった。貴き家柄や高い身分の閣僚たちからも、政治の権力はすべて離れていってしまった。その始まりを解き明かせば、天文年間(※文脈から、持隆が弑逆された天文22年8月下旬の政変を指すと考えられます)のことに由る。(細川)右馬頭(歴代の細川家当主)の時代は平穏に済んでいたものの、今や家臣(三好氏など)が政治の実権を執っている。これはかつての先祖(満元など)の時代に、乱臣が宿り、みだりに守護の宝器(権力)を盗み取ったことに端を発している。これもひとえに、跡を継いだ嫡子の問題であった。左馬頭(細川家の一統)らも、国政を処理してはいたものの、今や没落(沈淪)してしまっている。万民は人質にとられたような状態に属しており、一時期は四国の海辺の土地(阿波や讃岐)の人々も、この乱世を深く嘆いた。かつての雅な任官の姿は、再び黒衣(出家・隠遁)から戻ることはない。民は、何年もの間、かつての平和な時代を思い慕っている。主君(細川氏)は、ただ僕(家臣である三好氏)によって進む道を違えさせられてしまった。阿波・讃岐など四国の「二十五の郡」の地域もまた、同じように家臣に支配されてしまった。主君には、実のところ(乱世を覆すほどの)大きな功績もなかったため、たちまちのうちに髪を剃って出家(あるいは命を落とすこと)に追い込まれてしまった。この貴き国(阿波)の歴史を深く考察してみるに、畢竟、これは(非業の死を遂げた主君の)亡魂が成せるわざであろうか。また、この人間世界の出来事というものは、すべて一時の幻のようなものである。かつては両家(細川家と三好家)の間で、高潔に身をかわし、お互いの気志を和らげて和睦を成していたこともあった。しかし、(三好氏の下克上は)誠実であった名門・細川の家を完全に廃絶させてしまった。この(悲劇の)ことを、備前守(現地の武将など)もたまたま聞き及んだ。これこそが、豊かな海(四国)を統治していた王(守護・細川氏)の結末である。
後世の知識人(あるいは当事者・関係者)が漢詩や哀悼の文章(任運の作)として総括・表現したものと考えられます。




