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完結後番外編十四 アンナの名簿

アンナは、自分の名を大きく書くのが苦手だった。


 使用人の名は、名簿の端に小さく書かれる。主人の予定、客人の好み、子どもの薬、洗濯物の印、馬車の時間。そうしたものを間違えずに記すのが仕事であり、自分の名前は最後でよかった。


 エレノアが侯爵家を出た日も、アンナは自分の荷物をほとんど持たなかった。


 お嬢様の薬帳。


 名綴り箱。


 奥様の裁縫箱。


 それだけで両手がふさがった。


 北境に来てから、エレノアは何度も言った。


「アンナ、自分の持ち物にも名前を縫って」


「必要ありません」


「必要です」


「私はなくしません」


「なくすかどうかではなく、あなたのものだと示すためです」


 そのたびに、アンナは返事を曖昧にした。


 自分のものだと示す。


 その感覚が、少し苦手だった。


 ある日、名前の家に来たばかりの小さな女の子が、アンナのエプロンを見て尋ねた。


「おばさまの名前、どこ?」


 アンナは手を止めた。


「私はアンナです」


「でも、ぬってない」


「縫っていなくても、皆が知っています」


「知らない人がきたら?」


 女の子は真剣だった。


「知らない人が、これ、だれの? って言ったら?」


 アンナは答えられなかった。


 その夜、彼女は自分のエプロンを広げた。


 長く使った白いエプロン。洗濯を重ねて布は柔らかくなり、角は少し擦り切れている。ポケットには、リネリアの小さなボタンを入れたまま忘れていたこともある。


 針に灰色の糸を通す。


 目立たない色を選んだ。


 けれど、最初の一針を入れる前に、エレノアが部屋へ入ってきた。


「灰色?」


「控えめでよいかと」


「アンナらしいですね。でも、読める色にしてください」


「奥様」


「名前は隠し文字ではありません」


 アンナは少しむっとした。


「では、何色がよろしいと」


 エレノアは糸箱から深い緑を出した。


「これ」


「派手です」


「落ち着いた色です」


「私には目立ちます」


「たまには目立ってください」


 二人はしばらく見つめ合った。


 先に折れたのはアンナだった。


「今回だけです」


「毎回そう言いますね」


 エレノアは笑った。


 アンナは深緑の糸で、自分の名を縫った。


 ア。


 ン。


 ナ。


 短い名だ。


 それでも、縫い終えるまでに妙に時間がかかった。


 布の端に、アンナ。


 たったそれだけで、エプロンが自分を見返してくるようだった。


 翌朝、リネリアがすぐに気づいた。


「アンナの名前!」


「大声で言うほどのことではありません」


「ある! アンナ、ある!」


 リネリアはなぜか嬉しそうに跳ねた。


 保護院の子どもたちも集まり「アンナだ」「ほんとだ」「読める」と口々に言った。


 アンナは顔をしかめた。


「皆さん、朝食の席へ」


 けれど、その日一日、彼女はエプロンを外さなかった。


 夕方、例の小さな女の子が言った。


「これで、知らない人がきてもわかるね」


「そうですね」


「アンナのもの」


 アンナは、エプロンの端に触れた。


「ええ。私のものです」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 私のもの。


 その言葉は、思ったより温かかった。


 後日、名前の家の備品名簿に新しい欄が増えた。


 担当者名。


 最初に書かれたのは、アンナだった。


 彼女は渋々その欄を認めたが、誰も見ていないところで、文字の横に小さな深緑の印を入れた。


 自分の名を大きく掲げる必要はない。


 けれど、小さくても読める場所に置くことはできる。


 アンナ。


 それは、誰かに仕えるためだけの名ではない。


 名前の家で、彼女自身が帰ってくるための目印でもあった。

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