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完結後番外編八 テオドールの家名

結婚して二度目の冬、私はテオドールの古い名札を見つけた。


 場所は、北境伯家の書庫の奥だった。古い遠征記録を整理していたとき、革張りの箱が棚の下段に挟まっていた。箱には埃が積もっており、鍵も壊れている。中には幼い子どもの手袋、木馬の欠けた脚、そして紺色の布に銀糸で縫われた名札があった。


 テオ。


 たった二文字。


 今の彼からは想像しにくい、柔らかい呼び名だった。


「奥様、それは」


 書庫係の老人が気まずそうに声を出した。


「先代奥様のお針箱に入っていたものです。整理の際に、こちらへ」


「テオドール様のお母上の?」


「はい。先代奥様は、若様をテオ坊とお呼びでした」


 テオ坊。


 私は思わず名札を見た。


 北境伯テオドール・グランヴィル。


 戦場で名を知られ、領地で信頼され、王都では無口な辺境伯と恐れられる人にも、テオ坊と呼ばれていた時代がある。


 当然のことなのに、胸が少し温かくなった。


 その夜、私は名札をテオドールへ見せた。


 彼は夕食後の執務室で、国境警備の報告書に目を通していた。机の上には相変わらず紙が多い。私はその隙間に、紺色の布を置いた。


 テオドールは文字を見て、動きを止めた。


「どこで」


「書庫の奥です。処分しますか」


「いや」


 彼は布に触れなかった。


 触れると、何かが戻ってきすぎるような顔だった。


「母の字だ」


「銀糸の留め方が丁寧です」


「母は、針仕事が苦手だった」


「そうなのですか」


「何度もほどいていた。私の手袋だけ、いつも名前の周りが厚くなっていた」


 彼は、少しだけ笑った。


 その笑いは、普段リネリアを見るときのものに似ていた。


「テオと呼ばれるのは、お嫌いですか」


 尋ねると、彼は私を見た。


「今は誰も呼ばない」


「嫌いかどうかです」


 テオドールは椅子にもたれた。


「嫌いではない。ただ、遠い」


「遠い名前」


「母が死んでから、誰もそう呼ばなくなった。父は北境伯としての名を重んじた。家臣は若様、やがて閣下。戦場ではグランヴィル。テオという音は、いつの間にか箱にしまわれた」


 その言い方が静かで、かえって痛かった。


 私たちは子どもの名前を守ることばかり考えてきた。


 けれど大人にも、箱にしまわれた名がある。


「出しましょうか」


「どこへ」


「あなたが決める場所へ」


 テオドールは、名札を見たまま黙った。


 しばらくして言った。


「リネリアに知られると、広まる」


「確実に」


「ノルにも知られる」


「時間の問題です」


「マリベルは笑うだろうか」


「笑わずに保存用の布を用意すると思います」


 彼は真剣に考え、やがてため息をついた。


「では、あなたが持っていてくれ」


「私が?」


「私が忘れすぎない場所に」


 その言葉は、告白より静かだった。


 私は名札を裁縫箱にしまった。


 翌日、リネリアに見つかった。


 裁縫箱を開けているときに、紺色の布が少し見えたのだ。娘は目ざとい。


「おかあさま、それなあに」


「お父さまの古い名札です」


「お父さまの?」


 リネリアは椅子に膝を乗せ、布をのぞき込んだ。


「テオ」


 読んだ瞬間、扉の向こうで物音がした。


 テオドールが、ちょうど通りかかったらしい。


 リネリアは顔を輝かせた。


「お父さま、テオなの?」


 逃げ場はなかった。


 テオドールは扉の前で立ち止まり、戦場より覚悟した顔で言った。


「昔は、そう呼ばれていた」


「リネも呼んでいい?」


 私はテオドールを見た。


 彼が決めることだ。


 テオドールは少し時間をかけて、うなずいた。


「二人のときなら」


「じゃあ、今は?」


「三人いる」


「おかあさまは、ひとりじゃないの?」


「数の問題ではなく」


 リネリアは笑った。


「じゃあ、特別なときに呼ぶ」


 その約束は、すぐに破られるかと思ったが、リネリアは意外なほど守った。


 彼女がテオと呼ぶのは、ほんの数回だけだった。


 雪の朝、テオドールが長い遠征から戻ったとき。


 リネリアが刺繍を失敗して泣き、彼が黙ってほどくのを手伝ったとき。


 そして、彼の誕生日に、紺色の小さな袋を渡したとき。


 袋には銀糸で、テオ、と縫われていた。


「お母さまと一緒に縫った」


 リネリアが言う。


「手袋じゃなくて、針入れ。お父さまも、たまに針を使うから」


 テオドールは袋を受け取り、しばらく何も言わなかった。


 ノルが横で小声で言った。


「泣くかもしれない」


 マリベルが即座に肘で止めた。


 テオドールは泣かなかった。


 ただ、リネリアの前に膝をついた。


「ありがとう」


「うん」


「大事にする」


「でも使ってね。しまうだけだと、名前がさみしいから」


 テオドールは、私を見た。


 その目に、母を亡くした少年と、北境を背負う男と、リネリアの父であろうとする人が同時にいた。


「使う」


 彼はそう答えた。


 その晩、彼は本当に針入れを使った。


 破れた手袋の端を直すためだ。針目は相変わらず不器用だったが、以前より少しだけ揃っている。


「テオドール様」


 私が呼ぶと、彼は顔を上げた。


「二人のときなら、テオと呼んでも?」


 彼は手元の針を止めた。


「あなたが呼ぶなら」


「嫌なら言ってください」


「嫌ではない。少し、慣れないだけだ」


 私はうなずいた。


「テオ」


 声に出すと、彼の肩がわずかに揺れた。


 返事は遅れた。


「……はい」


 その返事に、私は笑った。


「リネリアと同じ返事ですね」


「親子になったのかもしれない」


「そうですね」


 テオという名は、彼の公的な名を消さない。北境伯であることも、グランヴィルであることも、戦場の記憶も消えない。


 けれど、その下にしまわれていた幼い音を、私たちは少しだけ取り出した。


 大人になっても、名前は増える。


 忘れられた呼び名は、正しく扱えば戻ってこられる。


 私は裁縫箱の中に、古い名札のための新しい袋を縫った。


 表には、テオ。


 裏には、テオドール・グランヴィル。


 どちらも同じ人の名前。


 どちらかを選んで捨てる必要はない。

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