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完結後番外編三 アルベルトの庭

ヴァルト侯爵家の庭には、かつて白い小花が咲いていた。


 春になると、窓の下に薄い光が落ち、庭師が丁寧に刈り込んだ芝生の縁に、小さな花が列を作る。エレノアはその花を好んでいた。リネリアも、熱がない日には窓辺に座って花を数えていた。


 アルベルトは、それを最近になって知った。


 遅すぎる。


 その言葉は、彼の中で何度も響いた。


 離縁が成立し、侯爵家の権限が整理され、名簿局の監査が終わってから、屋敷はひどく静かになった。セシリアとミーナも出て行った。客人たちは減り、使用人の何人かは別の家へ移った。


 以前なら、静けさを秩序と呼んだだろう。


 今は、ただの空白に見えた。


「旦那様。庭師が参っております」


 執事が告げる。


 アルベルトは書類から顔を上げた。


「入れ」


 庭師は、帽子を胸に抱えて入ってきた。年配の男で、エレノアが嫁いでくる前からこの家にいる。


「子ども部屋の下の花壇について、ご相談がございます」


「何か問題か」


「植え替えの時期です。以前は奥様が、白い小花を残すようにとおっしゃっていました。今後はどういたしましょう」


 奥様。


 その呼び方に、アルベルトは指を止めた。


 もう彼女は奥様ではない。


 正しくは、エレノア・グランヴィル。北境伯夫人。リネリアの母。


 アルベルトの妻だった人。


「白い花を残せ」


 庭師が驚いた顔をした。


「よろしいのですか。旦那様は以前、花壇をもっと格式あるものにと」


「残せ」


「承知しました」


 庭師が下がろうとしたとき、アルベルトは呼び止めた。


「その花の名は」


「リネ草でございます」


 アルベルトは息を止めた。


「リネ?」


「はい。正式にはリネリア草と申しますが、北方ではリネ草と。奥様が、お嬢様のお名前に似ているからと」


 庭師は、言ってから失言に気づいたように口を閉じた。


 アルベルトは叱らなかった。


「そうか」


 庭師が出て行くと、彼は椅子にもたれた。


 リネリア草。


 娘の名に似た花。


 彼は知らなかった。


 娘の部屋の下に何が咲いていたか。妻がなぜその花を残したか。リネリアが窓辺で何を数えていたか。


 名前を奪おうとした人間は、その名前に似た花さえ知らなかった。


 午後、アルベルトは子ども部屋へ行った。


 部屋はそのまま残してある。療養用の小さな寝台、絵本棚、窓辺の椅子。エレノアが出て行った後、暖炉の守りが消え、薬箱が開かなくなり、彼は初めてこの部屋に足を踏み入れた。


 遅すぎた。


 その遅さと向き合うために、彼は部屋を壊さなかった。


 使用人の中には、新しい用途に変えたほうがよいと言う者もいた。だが、アルベルトは拒んだ。


 今はここを、屋敷で働く者の子どもが一時的に休める部屋として使っている。熱を出した子、親の仕事が終わるまで待つ子、字を練習する子。エレノアが整えた家具は、ようやく子どものために使われるようになった。


 棚には、エレノアから送られた冊子が置かれている。


 名札と保護名の基礎。


 王都分室で配られているものだ。アルベルトは寄付名簿に名前を出さない条件で、印刷費を負担した。エレノアから礼は来なかった。当然だ。礼を望む資格はない。


 その代わり、王都分室の事務員から簡潔な受領証が届いた。


 受領しました。


 用途どおり使用します。


 それだけで十分だった。


 机の上に、今日届いた手紙がある。


 差出人はリネリア。


 月に一度、短い手紙が来る。返事はもっと短くしなさいと、最初の手紙にエレノアが添えていた。娘の負担にならないように、と。


 アルベルトは封を開けた。


 父上へ。


 春です。北境の雪がとけました。黒パンの子どもが大きくなりました。こげ丸はパン屋さんにもらわれました。白靴は名前の家にいます。私は、手袋をぬうのが早くなりました。


 父上の庭には、リネ草がさいていますか。


 リネリアより。


 短い手紙だった。


 だが、最後の問いがアルベルトの胸を刺した。


 父上の庭には、リネ草がさいていますか。


 彼女は覚えていたのだ。


 あの庭を、窓辺から見ていたことを。


 アルベルトは返事を書こうとして、筆を置いた。


 すぐには書けなかった。


 美しい言葉を並べることはできる。後悔も、謝罪も、父親らしい気遣いも書ける。だが、それらの多くは自分を飾るための言葉になりそうだった。


 彼は庭へ出た。


 庭師が花壇の土を整えている。白いリネ草は、まだ小さな蕾だった。


「庭師」


「はい」


「この花が咲いたら、押し花にできるか」


「できます。ですが、お嬢様へお送りになるなら、根ごと北境へ送ることも」


「いや」


 アルベルトは首を振った。


「北境には、北境の花がある。これは、この庭に咲いたことを伝えるだけでいい」


 庭師は少しだけ目を細めた。


「承知しました」


 夕方まで、アルベルトは庭にいた。


 何もできない男だと、自分で思った。


 彼ができることは少ない。奪おうとした名前を返すことも、消えかけた恐怖をなかったことにすることもできない。娘の幼い日々を取り戻すことも、エレノアが一人で縫い続けた夜を補うこともできない。


 できるのは、今ある問いに、嘘なく答えることだけだ。


 夜、彼は短い返事を書いた。


 リネリアへ。


 庭のリネ草は、まだ蕾です。庭師に名を教えてもらいました。私は、昔それを知りませんでした。


 咲いたら、押し花を送ります。


 黒パンの子どもの名前を教えてくれてありがとう。手袋を縫うのが早くなったことも、読みました。


 父より。


 書き終えてから、アルベルトは封をした。


 謝罪を書かなかったことに、胸がざわついた。


 謝らなくてよいわけではない。だが、リネリアの手紙は謝罪を求めていなかった。庭に花が咲いているかを聞いていた。


 まず、その問いに答える。


 それが今の彼にできる、唯一の父親らしさだった。


 数日後、王都分室から別の手紙が届いた。


 差出人はミーナだった。


 ヴァルト侯爵様。


 先日の印刷費寄付について、匿名処理を完了しました。余剰分は低所得家庭向けの名札布に充てます。


 また、王都分室では来月、父親向けの名札講座を開きます。参加は任意です。侯爵様のお立場で参加されると周囲が緊張しますので、見学を希望される場合は事前にご相談ください。


 ミーナ・ローウェル。


 アルベルトは、しばらく手紙を見た。


 父親向けの名札講座。


 針を持つ父親たちが、子どもの名を縫う。


 かつての彼なら笑っただろう。今は笑えなかった。


 彼は返事を書いた。


 見学ではなく、参加を希望します。


 身分を伏せる必要があれば従います。


 針は不得手です。


 それでも、参加します。


 送った後で、少し怖くなった。


 侯爵としてではなく、父として、失敗する場に行く。


 だが、その怖さから逃げ続けた結果が、今の自分だった。


 講座の日、アルベルトは質素な外套で王都分室へ向かった。


 受付に立つミーナは、かつて侯爵家に連れてこられた幼い少女とは違っていた。背筋が伸び、自分の名札を胸につけている。


 ミーナ。


 青糸で縫われたその名は、彼が一度軽んじた名前だった。


「本日はご参加ありがとうございます」


 ミーナは事務的に言った。


 恨みも、媚びもない。


 アルベルトは頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 講座室には、商人、兵士、職人、使用人らしき男たちがいた。皆、針を持つ手つきが危うい。


 ミーナは最初に言った。


「今日は、父親が子どもの名を縫う講座です。上手に縫えなくてもかまいません。ただし、途中で『母親に任せればよい』と言った方には、最初からやり直していただきます」


 部屋に笑いが起こった。


 アルベルトは笑えなかった。


 その言葉は、彼自身への罰のようだった。


 練習布が配られる。


 彼は、リネリアの名を縫った。


 リ。


 糸が曲がる。


 ネ。


 針目が揃わない。


 リ。


 指に針が刺さり、血がにじむ。


 ア。


 最後の線が歪む。


 見苦しい文字だった。


 美しい名を、下手な手が縫った。


 それでも、布の上に娘の名前があった。


 ミーナが横に来た。


「糸が強く引かれすぎています。布が歪むので、少し力を抜いてください」


「分かった」


「ほどきますか」


 アルベルトは布を見た。


 歪んだリネリア。


「いや。このままにする」


「では、裏を整えましょう」


 ミーナはそれ以上何も言わなかった。


 講座の終わり、参加者たちは自分の布を持ち帰った。アルベルトも、歪んだ名札布を胸元の内ポケットにしまった。


 帰り際、ミーナが言った。


「リネリア様へ送るなら、練習布だと書いてください」


「分かっている」


「上手なふりをしないでください」


 その言い方に、アルベルトは苦笑した。


「手厳しいな」


「名前の家の講師ですので」


「そうだった」


 彼は深く頭を下げた。


「ミーナ先生。ありがとう」


 ミーナは少しだけ目を見開いた。


 そして、静かに言った。


「どういたしまして」


 屋敷へ戻ると、庭のリネ草が咲いていた。


 白い小さな花が、窓の下に並んでいる。


 アルベルトは押し花を作るよう庭師に頼み、自分の練習布と一緒に包んだ。


 手紙には、短く書いた。


 リネリアへ。


 庭のリネ草が咲きました。


 同封した布は、父が初めて縫ったあなたの名前です。上手ではありません。練習布です。


 見たくなければ、しまってください。


 父より。


 送った後、返事を待つ時間は長かった。


 十日後、リネリアから手紙が来た。


 父上へ。


 リネ草、ありがとう。押し花を本にはさみました。


 名前の布は、字がまがっています。でも、リネリアって読めました。


 リネリアより。


 それだけだった。


 アルベルトは、その手紙を何度も読んだ。


 許されたとは思わない。


 父親になれたとも思わない。


 けれど、リネリアって読めました。


 その一文が、彼に次の針を持たせた。


 庭には、白い花が咲いている。


 彼は今日も、間違えないように娘の名を書く。


 リネリア。


 かつて奪おうとした名を、今度は歪んだ針目で守るために。

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