表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/69

第五十四話 エピローグ リネリアの手袋

数年後、リネリアは自分の手袋に、新しい名札を縫った。


 リネリア・ハースト=ヴァルト。


 字はまだ子どもらしいが、線はしっかりしている。うさぎの印の横に、白い小花と小さな鈴も足されていた。


「ずいぶん印が増えたわね」


 私が言うと、リネリアは真剣な顔で答えた。


「うさぎはリネ。お花はおとうさま。鈴はリン。手はおかあさま。北風草はテオさま。黒パンはノル」


「黒パンも?」


「だいじ」


 娘の世界には、いろいろな名前が根づいている。


 すべてを一つの家名でまとめる必要はない。


 その年、リネリアは王都分室へ初めて見学に行った。セシリアとミーナが迎えてくれた。ミーナはもう、母の補助として小さな子どもの名札講座を手伝っている。


「リネリア、久しぶり」


「ミーナ、背がのびた」


「あなたも」


 二人は笑い合った。


 王都分室の壁には、名前の家の原則が掲げられている。


 名前は、帰るための道標。


 呼ばれたい名を聞く。


 急がない。


 子どもの安全を最優先に。


 それは北境から始まり、少しずつ各地へ広がっていた。


 リネリアはその文字を読み上げ、満足そうにうなずいた。


「おかあさまの言葉」


「みんなで作った言葉よ」


「リネも?」


「もちろん」


 娘は少し照れた。


 その日の夕方、王都の通りでアルベルトと会った。


 彼は以前より穏やかな顔になっていた。侯爵家の運営は大変らしいが、名綴り師を正式に雇い、使用人の仕事も見直したという。


 リネリアは自分から一歩前へ出た。


「おとうさま」


「リネリア」


「お花、今年もさいた?」


「ああ。咲いた。押し花にして送る」


「うん。リネのも、送る」


 会話は短い。


 でも、震えはなかった。


 アルベルトは私へ軽く頭を下げた。


「エレノア。リネリアを、ありがとう」


「私一人で育てたわけではありません」


「そうだな」


 彼はリネリアの手袋を見た。


「名前が上手になった」


「リネが、ぬった」


「そうか。とても良い」


 リネリアは嬉しそうに笑った。


 それを見て、私は胸の奥にあった古い痛みが、少し柔らかくなるのを感じた。


 過去は消えない。


 けれど、過去から届いたものを、未来の鉢に植え替えることはできる。


 北境へ戻る馬車で、リネリアは手袋を見つめていた。


「おかあさま」


「なあに」


「リネ、おおきくなったら、なまえのいえで、はたらく」


「そうなの?」


「うん。でも、ほかにも、いろいろする。お花もそだてる。手紙もかく。黒パンのこどももみる」


「黒パンの子どもがいるの?」


「たぶん」


 娘は真剣だった。


 私は笑った。


「リネリアが選べばいいわ」


「うん。リネ、えらぶ」


 その言葉に、私は深くうなずいた。


 物語の中で、リネリアは名無しの子として消えるはずだった。


 夫の後悔から始まる溺愛のために、娘の名前も命も失われるはずだった。


 けれど今、娘は自分の手袋に自分の名前を縫い、将来を選ぶと言っている。


 それ以上の結末はない。


 北境の門が見えた。


 帰る名を持つ者を迎える。


 リネリアが窓の外を見て、声に出して読んだ。


「かえるなをもつものを、むかえる」


「読めたわね」


「うん」


 門をくぐると、名前の家の灯りが見えた。


 テオドールが玄関で待っている。アンナが後ろで毛布を持ち、マリベルが何か小言を用意している顔をしている。リン・エイルが鈴を直し、ノルが鍛冶屋の作業着で黒パンを追いかけている。


 リネリアは馬車の扉が開く前から、手袋の鈴を鳴らした。


 ちりん。


 帰ってきた合図。


 私は娘の手を取り、馬車を降りた。


「ただいま」


 リネリアが言う。


 皆がそれぞれに答えた。


「おかえり」


 名前を呼ばれ、返事をする。


 たったそれだけのことを守るために、私は夫を捨て、屋敷を出て、北境へ来た。


 そして今、そのたったそれだけのことが、私たちの暮らしを照らしている。


 リネリア。


 私の娘。


 あなたの名前は、あなたのもの。


 これから先、どんな家名を選んでも、どんな場所へ行っても、その最初の約束だけは変わらない。


 名前は、世界で迷子にならないための目印だ。


 だから今日も、私はあなたの名を呼ぶ。


「リネリア」


 娘は振り返り、笑った。


「はい、おかあさま」


 その返事が聞こえる場所が、私の帰る家だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ