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第五話 侯爵家に戻らない理由

翌朝、私はヴァルト侯爵家への返書を書いた。


 感情は削った。怒りはある。悔しさも、まだ胸の奥で熱を持っている。けれど法務官に読まれる文書へそれを乗せれば、相手は私を「取り乱した妻」と呼ぶだろう。


 だから紙には事実だけを置いた。


 一、リネリアの洗礼名移譲を強要されたこと。

 二、娘本人が不安を示したにもかかわらず、父親であるアルベルトが配慮しなかったこと。

 三、名簿官立ち会いのもと、名綴り親として移譲を拒否したこと。

 四、現在、娘の名の保護と安全確保のため別居していること。

 五、離縁協議は代理人を通して行うこと。


 最後に、娘への接触は名簿局と法務官を通すよう求める、と記した。


 書き終えると、手が少し震えていた。


 アンナはそれを見て、何も言わずに温かい布を渡してくれた。私は指先を包み、ゆっくり息を吐く。


「奥様、戻りたいですか」


「いいえ」


 答えはすぐに出た。


「ただ、戻らないと決めるたびに、リネリアから何かを奪っているのではないかと思うの」


 広い庭、子ども部屋、侯爵令嬢としての教育、父親、家名。私が守ろうとしているものは娘の名前だが、そのために失うものもある。


 母親だからといって、すべて正しい判断ができるわけではない。前世の保育士だった記憶が戻っても、目の前の娘にとって何が最善かは、毎日迷う。


 アンナは窓際でリネリアが宿の猫に話しかけているのを見た。


「お嬢様は、昨夜よく眠っておられました」


「ええ」


「侯爵家では、夜中に何度も起きていらっしゃいました。奥様が気づいて抱き上げるまで、声を出さずに泣いていたこともあります」


 私は顔を上げた。


「あなた、知っていたの」


「お茶係ですから」


 アンナは平然と言う。


「戻れば、部屋も庭もあります。でもお嬢様はまた、自分の名前を取られるかもしれない場所で眠ることになります。それは、今のお嬢様には少し重いと思います」


 その言葉に、私は胸の奥で固まっていた迷いが少しほどけるのを感じた。


 母親の判断がすべて正しいとは限らない。だからこそ、娘を見てくれている人の言葉を聞く必要がある。


「ありがとう、アンナ」


「給金分の仕事です」


「給金はまだ払えていないわ」


「では、未払い分も含めて働きます」


 彼女は真面目な顔でそう言い、私たちは久しぶりに少し笑った。


 昼過ぎ、名簿局の紹介で法務官が来た。若い女性で、名はイザベル・マーロウ。髪をきっちり結い、眼鏡の奥の視線は鋭いが、リネリアへ向ける声は柔らかかった。


「お母様とお話をしてもよろしいですか、リネリア様」


 リネリアは私の手を握ったまま、こくりとうなずいた。


 イザベルは机に書類を広げ、淡々と説明した。


「奥様の立場は不利ではありません。洗礼名の移譲強要は、親権の協議において重大な材料になります。ただし侯爵家側は、あなたが感情的に家を出たと主張するでしょう。今後は、すべて記録してください。受け取った手紙、使者の発言、娘さんの体調、名綴りの状態。日記でも構いません」


「分かりました」


「北境へ行く件ですが、正式な雇用契約があり、居所を法務局へ届け出るなら問題ありません。むしろ仕事と住居があることは、あなたの安定性を示します」


 その言葉に、テオドール様の契約提案がどれほど実用的だったか分かった。


 感情の逃避ではなく、雇用に基づく移住。


 それは私とリネリアを守る盾になる。


「ただし、侯爵家が娘さんとの面会を求める可能性はあります」


 私の手の中で、リネリアの指が強張った。


 イザベルはすぐに声を落とした。


「今すぐではありません。面会には条件をつけられます。場所、時間、同席者、娘さん本人の状態。無理に父親へ会わせる必要はありません」


「おとうさまなのに?」


 リネリアが小さく言った。


 イザベルは娘の方へ向き直った。


「父親でも、リネリア様が怖いと思ったら、すぐ休んでいいのです。大人が話し合うことです」


 リネリアは難しい顔で考えていたが、やがて私に寄りかかった。


 私はその肩を抱く。


 この子はまだ父親を嫌いきれない。優しくされた記憶が少なくても、父親という言葉には期待が残る。だからこそ、アルベルトにはその期待を踏みにじらないでほしかった。


 その夕方、二通目の手紙が届いた。


 今度はセシリアからだった。


 封を切ると、淡い香りがした。侯爵家で使われている高価な便箋ではなく、彼女自身が持ってきたらしい薄い紙だ。


 内容は短かった。


 エレノア様。昨日は取り乱してしまい、申し訳ありません。ミーナが、リネリア様に謝りたいと言っています。けれどアルベルト様は、今は会うべきではないとおっしゃいます。わたしもどうすればよいのか分かりません。ミーナは昨夜、自分の靴下の名前をほどかないでと泣きました。


 最後の一文を読んで、私はしばらく動けなかった。


 ミーナもまた、奪われる側だった。


 セシリアは娘を幸せにしたいと言いながら、侯爵家の名に目を奪われていた。けれどミーナ自身は、祖母が縫った自分の名前を手放したくなかったのだ。


「お返事を書きますか」


 アンナが尋ねる。


「ええ。ミーナ様に、靴下の名前をほどかなくていいと伝えます」


「セシリア様には?」


「お子様の名前を、まず母親が呼んであげてください、と」


 アンナはうなずいた。


 その夜、リネリアは店主にもらった赤い糸で、布うさぎの耳に小さな名札を縫った。字はまだ書けないので、私が薄く線を引き、娘がその上をたどる。


 リネリア。


 布うさぎの名前もリネリアにする、と言われたらどうしようと思ったが、娘は真剣に考えて、別の名前をつけた。


「この子は、モモ」


「どうして?」


「おみみが、ももいろだから」


 単純で、いい名前だった。


 私はリネリアの手を支えながら、モモ、と小さく綴った。


 その名札を見て娘が笑ったとき、私はようやくはっきり分かった。


 侯爵家に戻らない理由は、アルベルトを罰するためではない。


 リネリアが誰かに名前をつける楽しさを、失わないようにするためだ。

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