表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/69

第三十七話 リンが選ぶ日

リンが自分の正式名を考え始めたのは、セシリアの研修が終わった後だった。


 きっかけは、名前の家で開いた母親向け講座だった。参加者の一人が、生まれたばかりの子に名前をつける話をしていたのだ。


「名前は親が願いを込めるものだと思っていました。でも、子どもが大きくなったら、その名をどう思うか聞いてみたいです」


 その言葉を、リンは窓辺で聞いていた。


 講座のあと、彼女は私のところへ来た。


「リン、ねがい、ない」


「名前に込められた願いのこと?」


 彼女はうなずいた。


「だれも、つけなかった」


 私は針を置いた。


 名をつけられなかった子にとって、名前を選ぶことは自由であると同時に、孤独でもある。親の願い、家族の記憶、土地の由来。そういうものがない白紙から選ばなければならない。


「願いは、今から込めてもいいわ。リン自身が、自分に願うことでもいい」


「じぶんに」


「ええ。どんなふうに生きたいか。誰に呼ばれたいか。どの音が怖くないか」


 リンは長く考えた。


 その日から、彼女は名前の候補を集め始めた。


 リネリアは張り切って協力した。


「リンベルは?」


「ベル?」


「すず!」


 ノルは少し考えて言った。


「リンだけでいいんじゃないか。短いし」


 ヨナは「雪鈴」と言い、ヨハンは「読みにくい」と反対した。マイラは「リーナ」を提案したが、リネリアと似すぎるのでリンが首を振った。


 子どもたちは真剣だった。


 名前を選ぶことが、こんなにも皆を巻き込む大きな出来事になるのだと、私は改めて思った。


 数日後、リンは私に言った。


「リン・エイル」


「エイル?」


「いみ、ある?」


「古い言葉で、風、または息という意味があります」


 私は書庫で調べたことを思い出した。


 リンは自分の胸に手を当てた。


「すず、こわかった。でも、いま、いき、できる。リン、エイルがいい」


 鈴の音と、息。


 とても彼女らしい選択だった。


「素敵な名前です」


 私が言うと、リンは少し笑った。


「ほんと?」


「ええ」


 正式登録には慎重な手続きが必要だった。


 リンには親が不明で、聖女信仰の祠にいた記録しかない。王妃殿下の後援もあり、名簿局は特別保護名として申請を受け付けた。本人の意思確認、医師の確認、保護院の記録、名綴り師の所見。


 申請書の本人希望欄に、リンは震える手で印をつけた。


 文字はまだ書けない。


 けれど、彼女自身が選んだ印だった。


 登録の日、名前の家で小さな名付け式をした。


 派手な儀式ではない。工房の机に白い布を置き、リンが選んだ糸を並べる。鈴の銀、風の薄青、そして本人が「こわくない」と言った生成りの布。


 リネリアは見守り係だ。


「リン、がんばって」


 リンはうなずいた。


 私は最初の一針を置く前に尋ねた。


「この名を、あなたの名として綴ってよろしいですか」


 リンは小さく息を吸った。


「はい」


 はっきりした返事だった。


 私は布に縫った。


 リン・エイル。


 一針ずつ、ゆっくり。


 縫い終えたとき、鈴が小さく鳴った。誰かが鳴らしたのではない。窓から入った風で、リンの手元の鈴が揺れたのだ。


 リンは布を胸に抱いた。


「リン・エイル」


 自分で呼んだ。


 リネリアが手を叩いた。


「リン・エイル!」


 子どもたちも続く。


「リン・エイル!」


 何度も呼ばれるうちに、リンの目から涙がこぼれた。


 でも、それは祠で見せた恐怖の涙ではなかった。


 自分が呼ばれていると分かった子の涙だった。


 その日の夜、リンは初めて名呼びで返事をした。


「リン・エイル」


「はい」


 短く、けれど確かな声。


 リネリアは隣で泣きそうな顔をしていた。


「おかあさま、リン、いたね」


「ええ。いたわ」


 名を選ぶことは、過去を消すことではない。


 白紙にされた過去を抱えたまま、それでも自分で一行目を書くことだ。


 リン・エイル。


 彼女の名前は、名前の家で初めて本人が選んだ正式名として記録された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
リン・エイル エイルが家名?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ