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第三十話 名をつけない罪

救助された二人の子どもは、しばらく保護院で鈴の子と呼ばれた。


 本人たちがそれを嫌がらなかったからだ。名を持たないまま育った子どもに、いきなり新しい名前を与えるのは危険だと判断した。名前は贈り物にもなるが、押しつければ別の拘束になる。


 女の子は鈴子、と書くのを嫌がった。


 けれど「ちいさい鈴」と呼ばれると、少し笑う。男の子はほとんど話さないが、鈴を握って「いる」と言えるようになった。


 リンは、二人のそばに座ることが増えた。


 彼女自身もまだ仮の音で呼ばれている。けれど同じ祠で育った子どもたちにとって、リンは外の世界へ出た先輩のような存在だった。


 老女は治療を受けたあと、領主館で事情聴取を受けた。


 彼女は自分の行為を悪いと思っていなかった。


「名を与えぬ子は、神に近い。家の争いにも、相続にも、汚れにも触れぬ。あの子らは清らかでいられる」


 テオドール様が静かに尋ねた。


「その清らかさを、子ども自身が望んだのですか」


「子どもは何も知らぬ。だから大人が守る」


「名前を与えないことが守ることだと?」


「名は縛る。家に縛り、欲に縛り、罪に縛る」


 私は聞いていて、胸が重くなった。


 確かに名前は縛ることもある。黒インクがそうだった。家名のためにリネリアの名を動かそうとしたアルベルトも、名前を所有物のように扱った。


 けれど、縛る可能性があるからといって、名前そのものを与えないのは違う。


 靴に名前があれば戻ってくる。


 迷子札に名前があれば大人が見つけられる。


 名前を呼べば、子どもは自分が見られていると分かる。


「名は縛るだけではありません」


 私は老女に言った。


「帰るための目印にもなります」


 老女は私を見た。


「あなたは母親だから、そう言う」


「はい。母親だから言います。名を持たず、誰からも自分の名で呼ばれない子が、どれほど不安か知っているからです」


「聖女には不安などない」


「それは大人が決めた役目です。子どもの心ではありません」


 老女は黙った。


 彼女は悪意だけで動いていたわけではないのだろう。古い信仰の中で、本当に子どもを神に近づけていると思っていたのかもしれない。


 だが、善意でも子どもを消すことはある。


 名をつけない罪。


 それは名を奪う罪と同じくらい深い。


 数日後、リンが初めて自分から工房の机に座った。


 彼女は布と鈴を見つめ、かすれた声で言った。


「リン、いやじゃない」


 私は手を止めた。


「リンと呼ばれるのが?」


 彼女はうなずいた。


「でも、ほんとの、なまえ、わからない」


「本当の名前は、すぐ決めなくてもいいわ。リンは音の目印です。あなたが自分で選ぶまで、仮の灯りにしましょう」


 リンはその言葉をゆっくり考えているようだった。


「えらぶ」


「ええ。いつか、あなたが選ぶ」


 リネリアが隣から言った。


「リネは、リネリアがいい」


 リンはリネリアを見た。


「リネリア、ながい」


「うん。ながいの。でも、リネもある」


「ふたつ?」


「どっちも、リネ」


 子ども同士の会話は、大人の説明より届くことがある。


 リンは少しだけ笑った。


「リンも、ふたつ、できる?」


「できるよ。リネが、おぼえる」


 リネリアが胸を張る。


 リンは鈴を見た。


「じゃあ、いまは、リン」


 私は布に小さく、リン、と仮名を縫った。


 正式登録ではない。本人が選ぶまでの仮の灯り。


 それでも、リンは布を手に取ると、初めてはっきり笑った。


 救助のあと、テオドール様の手の傷は数日で塞がった。


 けれど私は、その傷跡を見るたびに雪崩の瞬間を思い出した。彼が私と男の子を岩陰へ押し込んだ腕。自分の怪我より全員の無事を確認した声。


 ある夜、工房の片づけをしていると、彼が入ってきた。


「まだ起きていましたか」


「あなたも」


「マリベルに見つかる前に帰ります」


 私は笑った。


 彼は机の上のリンの仮名札を見た。


「リンは、自分で選び始めたのですね」


「ええ。まだ仮ですが、大きな一歩です」


 テオドール様はうなずき、少し沈黙した。


「エリスの名綴り布を、見ていただけますか」


 私は顔を上げた。


 彼は小さな箱を持っていた。


 長い年月、触れられずにいた箱。


「急がなくていいと言ってくださいました。けれど、今なら開けられる気がします」


 私は椅子を引いた。


「一緒に見ましょう」


 箱の中には、古い白い布があった。


 エリス。


 糸はところどころほどけ、最後のスがほとんど消えている。


 私はその布へ手を伸ばす前に、テオドール様へ確認した。


「直してもよろしいですか」


 彼はゆっくりうなずいた。


「お願いします」


 その夜、私は彼の妹の名前を縫い直した。


 死者を戻すためではない。


 彼女が確かに呼ばれていたことを、残すために。

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