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第二十八話 雪崩の前触れ

リンと仮に呼ばれるようになった少女は、少しずつ反応を見せるようになった。


 鈴の音に目を向ける。水の杯を自分で持つ。柔らかい布を選ぶ。名前の家の窓辺に座り、子どもたちが名札を縫うのをじっと見る。


 話すことはまだなかった。


 けれど無反応ではない。彼女の中には確かに何かがあり、それが外へ出る方法を探している。


 リネリアはリンを気にかけていた。


 同じ年頃ではないし、遊び相手というより、遠くから見守る対象だ。娘は自分の鈴を貸そうとして、アンナに「失くしたら困ります」と止められた。代わりに、小さな布の鈴飾りを作ることにした。


「リン、これ、いやかな」


「渡す前に、見せて選んでもらいましょう」


「うん。いらなかったら、リネのにする」


 押しつけないことを覚えている。


 それだけで、娘の成長を感じた。


 そんな穏やかな日が数日続いたあと、北境の空気が変わった。


 山から吹く風が湿り、遠くで低い音がする。春の雪解けが進みすぎて、山肌が不安定になっていると領兵が報告した。


 テオドール様はすぐに領主館で対策会議を開いた。


「北巡礼道を閉鎖する。山際の三村には避難準備を出す。保護院は子どもたちの外出を止める」


 彼の指示は早かった。


 私は名前の家で、避難用の名札を用意した。子どもたちが万一離れても、すぐ確認できるように、外套の表と内側の両方へ名前をつける。小さな子には鈴も。


 リネリアは私の隣で糸を巻く手伝いをした。


「おやま、こわい?」


「少し危ないかもしれない。だから準備をするの」


「じゅんびしたら、だいじょうぶ?」


「大丈夫に近づけるわ」


 完全な安心を約束しない。それでも、準備することで守れるものがある。


 翌朝、山際の村から避難者が来た。


 保護院の食堂は一時避難所になり、子どもたちは職員棟へ移った。村人たちは濡れた外套を脱ぎ、名前の確認を受ける。高齢者、乳児、妊婦、怪我人。名簿と実際の人数を照合するのは、災害時にもっとも重要な作業の一つだ。


 前世の避難訓練を思い出した。


 園庭に並ぶ子どもたち、点呼、泣く子を抱く腕。あの時の知識が、今この世界で役に立っている。


「名簿のない方は、こちらで仮札を作ります。呼ばれたいお名前を教えてください」


 私は声を張った。


 村人たちは最初戸惑っていたが、マリベルが横で支えてくれた。


 その中に、見覚えのある女性がいた。


 リンを見つけた巡礼道近くの村の者だという。彼女はリンを見て、顔色を変えた。


「あの子……白鈴の子じゃないか」


 私はすぐに尋ねた。


「知っているのですか」


 女性は怯えたように周囲を見た。


「祠にいた子だよ。名をつけてはいけないって、巡礼の婆様が言ってた。鈴だけで呼ぶんだ。人の名前を持つと、聖女の力が汚れるって」


 リネリアが私のスカートを握った。


 私は娘の肩に手を置き、女性へ向き直った。


「その巡礼の婆様は今どこに?」


「山の祠に残ってる。閉鎖なんて聞かないって。神様が守るからって」


 その瞬間、遠くで低い音が響いた。


 地鳴りのような、山が息をするような音。


 領兵が外から駆け込んできた。


「辺境伯様! 北斜面で小規模雪崩! 巡礼道の上部が落ちました!」


 食堂がざわめいた。


 テオドール様はすぐに指示を出す。


「全員を屋内へ。二次崩落の可能性がある。救助隊を編成するが、無理に入るな」


 女性が泣き出した。


「祠には婆様のほかに、子どもが二人いるかもしれない。白鈴の子の代わりを連れていったって聞いた」


 代わり。


 その言葉が、部屋を刺した。


 リンが窓辺からこちらを見ていた。


 いつもぼんやりしている彼女の目に、初めて明確な恐怖が浮かんでいる。


「リン」


 私が呼ぶと、彼女の唇が震えた。


 声はほとんど音にならなかった。


「……すず」


 初めての言葉だった。


 リネリアが息を呑む。


 リンは自分の喉を押さえ、もう一度言った。


「すず、こ……いる」


 鈴の子。


 祠に残された子どもたち。


 テオドール様の顔が険しくなった。


「救助隊を出す」


 私は反射的に言った。


「私も行きます」


「危険です」


「祠の子たちは、名前がない可能性があります。呼びかけが届かなければ見つけられない。鈴への反応を使うなら、名綴り師が必要です」


 テオドール様は一瞬だけ目を閉じた。


「分かりました。ただし、私の指示に従ってください」


「はい」


 リネリアが私の手を握った。


「おかあさま、いくの?」


「行きます。戻ります」


「おやくそく」


「約束」


 娘は泣きそうだったが、手を離した。


 私はその勇気を胸に刻んだ。


 山へ向かう救助隊の中で、鈴の音だけが小さく鳴っていた。

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