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第二十六話 辺境伯の傷

名前の家が開いてから、テオドール様は以前より頻繁に保護院へ来るようになった。


 領主として状況確認に来る、というのが表向きの理由だ。実際、工房の相談件数、黒インク事件の追跡、子どもの保護手順など、確認すべきことは多い。


 けれどマリベルは、彼が子どもたちの名呼びを聞きに来ていることを知っていた。


「辺境伯様は、昔から名呼びの日が好きです」


 ある夕方、マリベルは私にそう言った。


「なぜですか」


「妹君を亡くされたからです」


 私は手を止めた。


 テオドール様に妹がいたことを、初めて知った。


「十七年前の冬です。領境の村で雪崩があり、当時八歳だった妹君が行方不明になりました。名前を呼び続けたけれど、返事はなかった。遺体も見つからず、名簿上は長い間、行方不明のままでした」


 マリベルの声は静かだった。


「辺境伯様が保護院の名呼びを重視するのは、子どもが返事をする朝が、当たり前ではないと知っているからです」


 私は胸が痛んだ。


 彼がリネリアの名前を丁寧に呼ぶ理由。ノルの好む呼び名を覚えていた理由。子どもを無理に急がせない理由。


 それは単なる善良さではなく、傷から生まれた配慮だったのかもしれない。


 その夜、テオドール様が工房に来た。


 私は古い洗礼布の修復をしていた。彼はしばらく黙って作業を見ていたが、やがて口を開いた。


「マリベルが余計なことを話しましたか」


「妹君のことを少し」


「そうですか」


 怒ってはいなかった。


 ただ、遠いものを見るような目になった。


「妹の名は、エリスでした。よく雪の中を走る子で、名前を呼ぶと必ず大きな声で返事をした。だから、返事がないことを受け入れるのに時間がかかった」


 私は針を置いた。


「今でも、探しているのですか」


「遺体は見つかっていません。ただ、生きているとは考えていない。北境の冬で、八歳の子が何日も持つことは難しい」


 彼は淡々と言った。


 けれど、その淡々とした声の下に、長い年月をかけて凍った痛みがあった。


「それでも、名前だけは消したくなかった。だから保護院の名簿を整え、名呼びを続けています。誰かがいなくなったとき、せめて、その子の名前を雑に扱わないように」


 私はリネリアを思った。


 もし娘の名が奪われ、誰も正しく呼ばなくなったら。前世の物語では、リネリアはそうして消えた。名前を失うとは、死だけでなく、生きているのに見つけてもらえなくなることでもある。


「エリス様の名綴り布は、ありますか」


 尋ねてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。


 テオドール様は少し沈黙し、それから答えた。


「あります。ですが、ほどけています。長く触れられなかった」


「直したいときが来たら、見せてください。急ぎません」


 彼は私を見た。


「あなたはいつも、待つと言う」


「待つのも仕事だと、最近娘に教えました」


 テオドール様は少し笑った。


「リネリア様は良い先生ですね」


「ええ」


 その時、工房の扉が開き、リネリアが顔を出した。


「おかあさま、ねるじかん」


 アンナの声が廊下から聞こえる。


「リネリア様、お母様はお仕事中です」


「でも、アンナが、まいにちねるって」


 娘は真剣だ。


 テオドール様が咳払いした。


「リネリア様のご指摘は正しいです。エレノア様、今日は休みましょう」


「あなたまで」


「私も戻ります。帳簿と睡眠の紙札を守らねばなりません」


 春の雪祭りの願いを覚えていたらしい。


 リネリアは満足そうにうなずいた。


「テオドールさまも、ねる」


「はい」


 その夜、私はいつもより早く寝室へ入った。


 リネリアは隣で布うさぎを抱え、目をこすっている。


「おかあさま」


「なあに」


「エリスって、だれ?」


 聞こえていたのかもしれない。


 私は少し考え、嘘をつかずに答えた。


「テオドール様の大切な妹さんよ。昔、雪の日にいなくなってしまったの」


「おなまえ、よぶ?」


「テオドール様は、きっと今も心の中で呼んでいるわ」


 リネリアはしばらく黙っていた。


「リネ、エリスさま、しらない。でも、わすれないって、できる?」


「できるわ」


「じゃあ、リネ、わすれない」


 娘はそう言って、目を閉じた。


 子どもの約束は小さい。


 けれど、その小ささが時々、大人の長い悲しみに光を入れる。

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