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第二話 名無しにする前に、屋敷を出ます

屋敷を出ると決めてから、私が最初にしたのは荷造りではなかった。


 娘の名前を縫い終えることだった。


 リネリアを子ども部屋の長椅子に座らせ、私は外套の裏地へ最後の一針を通す。金糸は細く、光に当たると柔らかくきらめいた。


 リネリア・ヴァルト。


 今はまだ、その名で縫う。


 この家を出た後、母方の家名へ一時的に移す手続きをするつもりだった。けれど、どの家名を名乗ることになっても、リネリアはリネリアだ。名前の芯まで変える必要はない。


「おかあさま」


「なあに」


「リネのなまえ、ぬえた?」


「縫えたわ」


 外套を広げて見せると、リネリアは少し安心したように息を吐いた。


「リネ、ちゃんとリネ?」


「ちゃんとリネリアよ」


 私は娘の額に口づけた。


 前世の保育園でも、子どもたちは何度も確認した。これは自分の靴か。これは自分のタオルか。今日は自分を迎えに来てくれる人がいるのか。


 大人にとっては小さな確認でも、子どもにとっては世界そのものだ。


 名前を奪うということは、その確認を奪うことだった。


 扉が控えめに叩かれた。


「奥様」


 入ってきたのは侍女のアンナだった。私が嫁いできた頃から仕えてくれている、落ち着いた女性だ。彼女は私とリネリアを見て、すぐに事情を察したらしい。


「荷物をまとめますか」


「ええ。リネリアの衣類、薬帳、洗礼証、名綴り箱を。私のドレスは三着でいいわ。宝石は持参金目録に載っているものだけ」


「侯爵家から贈られたものは?」


「置いていきます」


 アンナはうなずいた。


 余計なことを聞かないところが、彼女のありがたいところだった。


 私は机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。中には、リネリアが生まれた日に使った産着の切れ端、最初の名札、洗礼の日の青いリボン、薬箱の鍵が入っている。


 名綴り箱。


 家の男たちは、女が子どもの思い出をしまっておく箱だと思っている。けれど本当は、幼い子どもの名を守るための核になるものだ。


 アルベルトは、これを軽んじた。


 だからこそ、私はまだ間に合う。


「おかあさま、どこにいくの?」


「まずは王都の名簿局へ行きます。それから、温かい宿に泊まりましょう」


「おうち、かえる?」


 その問いに、胸が少し痛んだ。


 リネリアにとって、この屋敷は家だった。冷たい父親がいても、広すぎる廊下が夜に怖くても、この子はここで生まれ、ここで眠ってきた。


 私は娘の手を握る。


「リネリアが安心して眠れる場所を、お母さまの家にしましょう」


 リネリアは考え込むように私を見て、それから小さくうなずいた。


「おかあさまと、アンナも?」


 アンナが少しだけ表情を崩した。


「もちろんです。お嬢様のお茶係がいなくなったら、大変ですから」


 リネリアの肩から力が抜けた。


 子どもには、そういう小さな約束が必要だ。


 荷造りは早かった。


 私はこの屋敷で多くを望まないようにしてきたので、持っていくものも多くなかった。娘の服、常備薬、絵本、眠るときに抱く布うさぎ。私の書類と、母から受け継いだ裁縫箱。それで鞄はほとんど埋まった。


 廊下へ出ると、階下から人の声が聞こえた。


 名簿官が到着したのかもしれない。


 アルベルトは本当に、午後までに娘の名前を移すつもりなのだ。


 私はリネリアの手を引き、裏階段へ向かった。けれど、曲がり角でセシリアに会った。


 彼女はミーナを連れていた。


 ミーナは、朝と同じ人形を抱いている。大人たちの話をすべて理解しているわけではなさそうだったが、どこか居心地悪そうに私たちを見た。


「エレノア様、本当に出て行かれるのですか」


「はい」


「そこまでしなくても……。名前だけのことですのに」


 私はミーナを見た。


 その子の靴下にも、小さく名前が刺繍されていた。少し歪んだ文字で、ミーナ、と縫われている。おそらく母親か祖母が縫ったものだろう。


「セシリア様。ミーナ様の靴下には、お名前が入っていますね」


「え?」


「どなたが縫われたのですか」


 セシリアは視線を落とした。


「母です。あの子が生まれたときに……」


「では、大事になさってください」


 私がそう言うと、彼女は戸惑ったように眉を寄せた。


「ですが、ミーナにはもっと良い名が」


「ミーナ様にとっては、ミーナが最初の名前です。誰かの名をかぶせる必要はありません」


 ミーナが、人形を抱く手に力を込めた。


 私はしゃがみ、できるだけ穏やかに言った。


「ミーナ様。あなたのお名前も、とても可愛いわ」


 ミーナは驚いたように目を丸くした。


 セシリアは、その言葉を喜ばなかった。


「……まるで、わたしが娘を大切にしていないみたいです」


「そうならないように、申し上げています」


 言い終える前に、低い声が廊下に響いた。


「エレノア」


 アルベルトだった。


 彼は名簿官らしき男を連れていた。男の手には、黒い革張りの登録簿がある。


「勝手にどこへ行く」


「名簿局へ」


「必要ない。ここで手続きする」


「その手続きに、私は同意しません」


 アルベルトの目が鋭くなった。


「妻としての務めを放棄するのか」


「妻である前に、母親です」


「リネリアはヴァルト家の子だ。君だけの娘ではない」


「だからこそ、父親が娘の名前を奪おうとしていることを、公式に記録していただきます」


 私は名簿官へ視線を向けた。


 名簿官は気まずそうに咳払いした。どうやら、単純な改名手続きだと聞かされて来たらしい。


「奥様。念のため確認いたしますが、リネリア様ご本人の洗礼名を、養女となるお子様へ移すということでしょうか」


「夫はそのつもりです」


「私は、家のために必要だと言っただけだ」


 アルベルトが苛立った声で言う。


 名簿官の顔色が変わった。


「洗礼名の移譲は、子どもの死亡、修道院入り、または本人の成人後の同意がある場合を除き、原則として認められません。まして幼児であれば、名綴り親の同意が必須です」


「だから妻に同意させる」


「強要の記録が残れば、名簿局の審査対象になります」


 アルベルトが黙った。


 私は鞄から外套を取り出し、裏地の名札を見せた。


「名綴り親として、リネリアの名の移譲を拒否します。また、娘の療養に必要な名綴り箱と薬帳を持って、当面は別居します」


「別居だと?」


「離縁の申し立ては、後ほど正式に」


「エレノア、馬鹿な真似はやめろ」


「馬鹿な真似を止めに来たのです」


 アルベルトは手を伸ばし、リネリアを引き留めようとした。


 その瞬間、リネリアが私のスカートの後ろへ隠れた。


 夫の手が、空中で止まる。


「リネリア」


 彼が娘の名を呼んだ。


 けれど、その声には苛立ちしかなかった。呼ばれたリネリアは、返事をしなかった。


 私は娘を抱き上げる。


「おとうさまに、さようならを」


 リネリアは少し迷い、それから小さな声で言った。


「さようなら、おとうさま」


 アルベルトの顔が強張った。


 彼はたぶん、娘がこんなに軽いことも、抱き上げたときに首へしがみつく癖があることも知らない。


 私たちはそのまま屋敷を出た。


 門番は止めようとしたが、名簿官が同席していたため強くは出られなかった。アンナが御者に銀貨を握らせ、馬車は王都へ向かって走り出す。


 屋敷が遠ざかると、リネリアは窓から外を見た。


「おかあさま」


「なあに」


「リネ、わるいこ?」


「いいえ」


「おとうさま、リネのおなまえ、いらないって」


 私は娘を膝に抱き直した。


「お父さまが間違えたの。リネリアの名前は、リネリアのものです」


「ほんとう?」


「本当よ」


 リネリアはしばらく黙っていた。


 やがて、外套の裏地をそっと触る。


「ここに、ある?」


「ええ。ここにもあるし、薬帳にも、絵本にも、お母さまの心の中にもあるわ」


「じゃあ、なくならない?」


「なくならない」


 そう答えると、娘はようやく私の胸に頬を寄せた。


 王都に着く頃には、夕方になっていた。


 名簿局はすでに受付を閉めていたので、私たちは南門近くの小さな宿に入った。看板には、三つの杯が描かれている。古いけれど、暖炉の火はよく燃えていて、店主の女性はリネリアを見るなり温めたミルクを用意してくれた。


 湯気の立つ杯の横に、店主が紙片を置く。


 そこには、少し丸い字でこう書かれていた。


 リネリアさまへ。


 リネリアは紙片を見つめた。


 それから、両手で杯を包み、ほとんど泣きそうな顔で笑った。


「おかあさま。リネのおなまえ、ここにもある」


「ええ」


 私は娘の髪を撫でた。


 屋敷を出たばかりで、これからのことは何も決まっていない。離縁も、家名の移動も、生活の場所も、すべて明日から整えなければならない。


 それでも今、リネリアは温かい部屋で、自分の名前を見ながらミルクを飲んでいる。


 まずは、それで十分だった。


 その夜、娘が眠ったあと、宿の部屋の扉が静かに叩かれた。


 アンナが警戒して開けると、廊下に立っていたのは宿の店主ではなかった。


 濃紺の外套を着た、背の高い男性だ。旅装だが、姿勢の良さから貴族だと分かる。隣には、毛布に包まれた小さな男の子を抱いた従者がいた。


 男性は、私に向かって深く頭を下げた。


「夜分に失礼します。名綴り師のエレノア様でいらっしゃいますか」


 その呼び方に、私は目を瞬かせた。


 侯爵家では、誰も私をそう呼ばなかった。

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