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最後の一ページ ~記憶を売れる世界の、消えてはいけない記憶~

作者: hiro
掲載日:2026/04/09

記憶を売った人間の目は、みんな同じ顔をしている。

 ——何かを失ったことすら、忘れた顔だ。


 この世界では、記憶は通貨だ。

 正確に言うと、記憶は〝売れる〟。専門の業者に持ち込めば、記憶の鮮明さと感情の濃さによって値段がつく。初恋の記憶なら中古車一台分。戦場で親友が死ぬのを見た記憶なら家一軒分。幸福だった子供時代の記憶を丸ごと売れば、老後は安泰だ。

 買った記憶は他人が追体験できる。娯楽として。学習として。あるいは——他人の人生を、自分の人生として生きるために。

 俺の名前はレン。二十六歳。職業は〝記憶屋〟。

 売りたい記憶を持つ人間と、買いたい記憶を持つ人間の、仲介をする。

 ただし俺には、絶対に売らないと決めている記憶が一つある。


 「今日も来てくれた」

 店のドアを開けると、カウンターの奥からセナが声をかけてきた。

 二十代後半、黒髪を無造作にまとめた女で、笑うと左の口角だけが上がる。俺の店の常連客だ。というより——毎日来る。

 「また売りに来たのか」

 「ううん、今日は見るだけ」セナはショーケースを覗き込んだ。「新しいの入った?」

 ショーケースには小さなガラス玉が並んでいる。記憶を封じ込めたものだ。乳白色のものは穏やかな記憶、赤みがかったものは激しい感情を含む記憶。

 「昨日、山岳地帯の老人から買い取った」俺はケースの端を指した。「八十年前、初めて山頂に立ったときの記憶。買い手がつくかは分からんが」

 「素敵」セナは目を細めた。「その人、なんで売ったんだろ」

 「生活費だろ。よくある話だ」

 「……そっか」

 セナはしばらく黙ってケースを見ていた。俺はコーヒーを二つ淹れた。彼女が来る時間には、いつもそうしている。


 セナが初めて店に来たのは半年前だ。

 「記憶を売りたい」と言った。

 「どんな記憶ですか」と俺が聞いたら、彼女は少し考えて「全部」と答えた。

 全部、というのはこの業界でたまにある話だ。人生を丸ごと手放して、新しく生き直したい人間がいる。記憶を全部売れば、自分が誰だったかすら忘れる。別の人間になれる。

 でもそれは高リスクだ。記憶のない人間は、自分の名前も、家の場所も、愛した人間の顔も分からなくなる。白紙になる。だから普通は、コア記憶と呼ばれる「自分を自分たらしめる核」だけは残す。

 俺はセナに「コア記憶は何を残しますか」と聞いた。

 彼女は答えなかった。

 代わりに「また来ます」と言って、出て行った。

 それから毎日来ている。


 「ねえレン」セナがコーヒーを両手で包んで言った。「記憶って、重いと思う?」

 「重いな」俺は即答した。「だから売れる」

 「そういう意味じゃなくて」

 「じゃあどういう意味だ」

 セナはしばらく考えた。「持ってると、しんどくなる記憶ってあるじゃない。でも捨てたら、軽くなれるのかな。それとも——軽くなったことすら、分からなくなるのかな」

 俺は答えなかった。

 正直に言うと、それは俺が十年考えている問いだ。

 記憶を売った人間は幸せになるのか。俺には分からない。売った後のことを、彼らは覚えていないから。


 その日の夜、閉店後に珍しい客が来た。

 スーツを着た四十代の男で、名刺を出してきた。〝記憶省・査定局〟と書いてある。政府の人間だ。

 「レン・アサギさんですね」

 「そうだが」

 「少々お聞きしたいことがあります」男は椅子に座りもせず、立ったまま言った。「当店で半年ほど通っているセナ・ミオという女性をご存知ですか」

 俺は黙った。

 「彼女は三年前、記憶の一括売却申請を出しています。ただし——一部の記憶に売却拒否の署名がされていて、査定が止まっています」

 「それが何か」

 「拒否された記憶の中に、国家機密に関わるものが含まれている可能性があります」男はそこで初めて俺を真っ直ぐ見た。「我々はその記憶を、買い取る必要があります」

 「本人が拒否してるんだろ」

 「ええ。だから——あなたに協力をお願いしたい」

 俺は立ち上がった。「帰ってくれ」

 「レンさん」男の声が低くなった。「彼女がなぜ毎日あなたの店に来るか、ご存知ですか?」

 俺は答えなかった。

 「彼女はすでに、記憶の大部分を売却しています。今の彼女には、自分がなぜあなたの店に来るのか——その理由の記憶すら、残っていない」

 俺の手が、止まった。


 男が帰った後、俺はカウンターに座ったまま動けなかった。

 セナが毎日来る理由を、セナ自身が知らない。

 それはつまり——セナはもう、来るべき理由を売ってしまった後も、体だけがここに来ている、ということだ。

 習慣として。あるいは——本能として。

 俺は棚の一番奥から、小さな鍵をつけた引き出しを開けた。

 中にガラス玉が一つだけある。

 俺が絶対に売らないと決めている、たった一つの記憶。

 五年前。記憶屋になりたての頃。俺は一人の女の子の記憶を買い取った。十五歳で、親に売らされた記憶だった。子供時代の幸福な記憶を全部、家のローンの足しにするために。

 女の子は泣かなかった。ただ「これで少し、楽になれる?」と俺に聞いた。

 俺は答えられなかった。

 女の子は店を出て、振り返らなかった。

 その後姿が——俺の中に焼き付いている。売れない理由を、俺はずっとうまく言語化できなかった。

 でも今、分かった気がした。

 その記憶は——俺がこの仕事を続けていい人間かどうか、確認するためのものだ。見るたびに、胸が痛ければ、まだ大丈夫だ、と思える。


 翌日、セナはいつも通りの時間に来た。

 「おはよう」

 「ああ」

 俺はコーヒーを二つ淹れた。

 セナがショーケースを見ている間、俺は彼女の横顔を見た。何も知らない顔だった。自分が何を失ったかを、知らない顔。

 「セナ」

 「ん?」

 「お前、なんでここに来るか分かるか」

 セナは少し考えた。笑った。左の口角だけが上がった。

 「分からない。でも——ここに来ると、なんか落ち着くんだよね」

 「そうか」

 「変かな」

 「変じゃない」

 俺はカウンターの下に手を置いた。昨夜、引き出しから出して、そこに置いておいたものに触れた。

 政府の男が帰った後、俺は一つのことを調べた。

 セナが売却を拒否した記憶——それがどこに保管されているか。まだ彼女の頭の中にある記憶は、査定局が「買い取り申請中」というフラグを立てている間は、強制収用できない。でもフラグが取り下げられた瞬間、国家は令状なしで記憶を摘出できる法律がある。

 つまり、俺が協力を断っている間だけ、セナの記憶は守られている。

 「ねえレン、さっきから何考えてるの」

 「仕事のことだ」

 「嘘くさい」セナはコーヒーを飲んだ。「レンって、あんまり記憶売らないよね。記憶屋なのに」

 「ああ」

 「なんで?」

 俺はカウンターの上に、昨夜取り出したガラス玉を置いた。

 セナが目を細めた。「それ……綺麗。何の記憶?」

 「見るか?」

 「いいの?」

 「ただし、見たら忘れられなくなるかもしれない」

 セナはしばらく玉を見つめた。それから俺を見た。

 「レンは、見たことある?」

 「毎日見てる」

 「なんで?」

 俺は答えた。

 「忘れないために」


 セナが玉に触れた瞬間——彼女の顔が変わった。

 目が、大きく開いた。

 記憶の追体験は数秒で終わる。でもその数秒で、見た人間は別人みたいな顔をすることがある。

 セナは玉から手を離した。しばらく黙っていた。

 「……この女の子」セナはゆっくり言った。「私だ」

 俺の心臓が跳ねた。

 「十五歳のとき」セナの声が、かすれた。「私、ここに来たんだ。記憶を売りに」

 俺は答えられなかった。

 「あなたが、買い取ってくれた」セナは俺を見た。「でも——この記憶、私の頭に残ってない。なんで?」

 「……売ったからだ」俺は言った。「でもこれは俺が持ってた」

 「なんで買い取ったの」

 「お前が泣かなかったから」

 セナは黙った。

 「子供が泣かない理由は二つだ。感じていないか——感じすぎて、もう泣けないか。お前は後者だった。だから俺は、この記憶だけは絶対に人に売らないと決めた」

 「なんで」

 「お前が売った記憶だから」

 「誰かが手放したものを、誰かが持っていてやらないといけない時がある。それが俺の仕事だと思ってる」

 セナはしばらく、玉を見ていた。

 それから泣いた。

 声も出さずに、静かに。

 俺はコーヒーを温め直した。それだけした。


 その夜、俺は政府の男に連絡した。

 「協力はできない」

 「……理由を聞いても?」

 「俺が持ってるものは、俺のものだ。売る気はない」

 電話を切った。

 これで査定局は令状を取りに動く。時間の問題だ。

 でも——それでいい。

 その間に、俺にはやることがある。

 引き出しの中には、もう一つガラス玉がある。

 ずっと迷っていた、もう一つの記憶。

 セナが五年前に売った記憶の中で——俺がひそかに買い取れなかったもの。彼女が十五歳のとき、親に連れられて店に来る前の記憶。家族で笑っていた記憶。それは別の買い手に売れてしまっていた。

 でも三年かけて、俺は追跡して、買い戻した。

 明日、セナに渡す。

 どうなるかは分からない。思い出した記憶が、彼女を楽にするのか。それとも——重くするのか。

 でも記憶というのは、持ち主のところに帰るべきだと俺は思っている。

 軽くなるためじゃない。

 ちゃんと、重くあるために。


 翌朝、セナはまたいつもの時間に来た。

 「おはよう」

 「ああ」

 俺はコーヒーを二つ淹れた。

 そして引き出しから、ガラス玉を一つ取り出して、カウンターに置いた。

 セナが玉を見た。「これは?」

 「お前のだ」

 「私の記憶?」

 「ああ」

 セナはしばらく玉を見ていた。手を伸ばしかけて——止めた。

 「怖い」

 「そうか」

 「見たら、しんどくなるかもしれない」

 「かもしれない」

 「なんで返してくれるの」

 俺は少し考えた。

 「しんどい記憶は、しんどいまま持ってた方がいいと思うから」

 セナは俺を見た。

 「——なんで?」

 「捨てたら、楽になった理由も分からなくなる。しんどかった記憶があるから、今が少しましだって分かる。重さがないと、どこにいるか分からなくなる」

 セナはしばらく黙っていた。

 それからゆっくり、玉に手を伸ばした。


 追体験が終わった後、セナはしばらく動かなかった。

 俺はコーヒーを飲みながら待った。

 「……お父さんが」セナは低い声で言った。「笑ってた」

 「ああ」

 「忘れてた。あの人、笑うんだった」

 「ああ」

 「しんどい」

 「そうか」

 「でも」セナは顔を上げた。目が赤かった。でも左の口角が、少し上がっていた。「ありがとう」

 俺は頷いた。

 窓の外で、街が動いている。

 どこかで誰かが記憶を売っている。どこかで誰かが記憶を買っている。軽くなりたい人間と、重くなりたい人間が、今日もこの街を歩いている。

 俺はコーヒーを飲んだ。ちゃんと熱かった。

 引き出しの中は、もう空だ。

 でも——胸の中はまだ、重い。

 それでいいと思っている。

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