表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

華麗なる婚約破棄は金曜日に

掲載日:2026/02/20

「ライス・オーバーブライト公爵令嬢、君との婚約を破棄する!」


 卒業パーティーの会場が凍りつく。


 高らかに宣言したのは私の婚約者、王太子であるレードル・ターメリック殿下だ。

その傍には勝ち誇ったような笑みを浮かべたナン・ハニーバター男爵令嬢の姿があった。


 軽やかな音楽に浮かれていた出席者は踊りのステップを止めて、このスキャンダルの行く末を見守っている。


 小さく「え……これ、やばくない?」と声が聞こえた。


「君みたいに白くてつややかに柔らかく、ふっくらとしてどこか甘い香りがするだけの面白みのない女より、しっかり自分の味を持ってるナン嬢こそ王太子妃にふさわしい」


 ターメリック殿下に寄り添いながら、ナン嬢は甘えたような声をあげる。


「殿下ぁ、おかわりもよろしくてよぉ」


 なんなの? いったい、何が起こっているの?

頭が真っ白になりそうだ。


「ナン嬢は素晴らしい、19×19の段まで九九を暗記しているんだ」


 ナン嬢は「そんなぁ、殿下」と嬉しそうに体をくねらせる。


「14×17は」


 愛しくてたまらないといった目でターメリック殿下がナン嬢を見つめる。


「748ですわ」


「どうだ、すごいだろう!」


 どうしよう……どうすればいい?


「そんな、そんな19×19が言えたって、実生活には役に立たないではありませんか」


 私の口から出たのは、自分でも情けなくなるほどつまらない言葉だった。

ターメリック殿下は私に向かってどこか憐れむような視線を投げた。


「愚かな……オーバーブライト、実生活から遠いようでいて、その実密接に関わっている、それが学問なんだよ」


 いくら考えてもこの状況をひっくり返すようなカードは、私の手にはなかった。


 ほかの女性を愛しそうに見つめる男に未練がましくすがって、あまつさえアカデミーという場で学術の真髄を安い言葉で汚して……こんな姿をさらしていたくはないのに、ゆるやかに屈折した薄手のガラスを通して四八方に振りまかれるシャンデリアの灯りは容赦なく私を照らし出す。


 その場にいることが耐えきれなくなった私は、逃げるように舞踏室を後にした。





 見慣れたはずの廊下の絨毯がやけによそよそしく見える。

重苦しくまとわりつくドレスの裾を足で蹴飛ばす。


 濃紺の生地に金糸の刺繍が入ったドレス。

今日のためにお母様が仕立ててくれたものだ。


『あなたは色が白いから本当によく似合うわ。学生生活最後の思い出、楽しんでいらっしゃい』


 ぐっと悲しさがこみ上げてくる。


 だめだ。


 泣いちゃだめだ。


 感情を抑えるように胸元に手を当てて息を吐き出したとき、不意に笑い声が聞こえた。


「誰?」


 振り返ると、遊学中の隣国の王太子、タレ・カツ・ウスター殿下が皮肉っぽく笑っていた。


「何が、おかしくて笑っていらっしゃるの?」


 私はキッとウスター殿下をにらむ。


 いつもどこか冷めてるというか、距離をおいて物事を眺めているようなウスター殿下は、ミステリアスで素敵だと一部の女子からはもてはやされていたけど、何を考えてるのかわからなくて私は少し苦手だった。


「いや、失礼……あまりに醜悪な三文芝居だったものでね、見ていられなくて」


 三文芝居……確かに私の醜態も、絶望も、はたから見れば馬鹿げた見世物でしかないのかもしれない。

恥ずかしさなのか怒りなのか、顔が熱くなる。


 私の反応を気にもとめていないように、ウスター殿下は姿勢を正すと、私に向かってすっと手を差し出した。


「君を、我が国の王太子妃として迎えたい」


「ええ?」


 思わずまぬけな声が出た。


「何をバカなことを……だって私は」


「さっきの茶番の結果、君は自由の身になったんだろう?」


 ただ事実をなぞるような、熱のない言葉にぎゅっと胸が苦しくなる。


「これは甘ったるい色恋なんかじゃない、契約だ」


「契約?」


 視線の先で、ウスター殿下の目がすうっと細くなる。


「愛や恋なんて、いかにもろくて不確かなものか、君だってわかっただろ? 俺は君の甘みにも辛みにも適応できて、ときには主役にだってなれるその能力を高く評価している」


 瞳は逃げ場をなくしたかのように固まり、開いたままの唇が空気を求めるように動く。

あまりのことに思考がついてこない。


「どうだ、うちの国に来ないか?」


 ウスター殿下の低くて静かな声が、胸の奥をざわっと震わせていく。


 なぜ、そんなことをしたのかはよくわからない。

もしかしたらこれ以上この建物にいるのが嫌になっただけかもしれない。


「いいわ、連れていって、あなたの国に」


 私はウスター殿下の手を取っていた。





 ひんやりと夜の香りが頬をすべっていく。


 ウスター殿下が駆る馬上で、私はどんどん遠くなる故郷を眺めていた。


「大丈夫か? 恐ろしくはないか?」


 耳元で聞こえるウスター殿下の声に私は首を振る。


「全然、もっと飛ばしていいわよ」


 ふっと、ウスター殿下が笑った。


「上等だ」


 夜の闇の中、いっそう馬はその脚を速める。


 ただ、遠くへ行きたかった。


 ターメリック殿下との思い出も、ナン嬢の甘え声も、聴衆のざわめきも、胸を覆い尽くす悲しみも、すべて見えなくなるほど遠くへ。


 ぎゅっと、ウスター殿下の服をつかむと、背中にまわされた腕に力が入るのがわかった。


 古い橋を渡って国境を越えると、草原の先に王都が見えてきた。


 朝焼けに包まれた街を見下ろしながら、ウスター殿下は私を強く抱きしめて、言った。


「我が国へようこそ、オーバーブライト」





 ベッドの下を流れているようなせせらぎに目を覚ました。


 あれ、ここは……?

まだ半分眠っているような意識でぼんやり体を起こすと、自分が下着しか身につけていないことに気づいた。


 あわててシーツを胸もとに寄せる。


 ベッドの横では、まるで残骸のようにパーティー用のドレスがへたり込んでいた。


 頭を2、3度振って大きく呼吸をする。

だんだん昨夜のことを思い出してきた。


 卒業パーティーという晴れやかな舞台で、私は婚約を解消された。

苦しくて虚しくて、絶望にうちひしがれていた私の前に、ウスター殿下の手が差し出された。


『うちの国に来ないか?』


 そして恐ろしいものから逃れるように、一夜のうちに国境を越えた。


 明け方に城に着いて、ウスター殿下は私を客間に通すと眠そうに自室へと帰っていった。


 部屋を見まわす。

カーテンごしに差し込む薄明かりが照らす中、木製の簡素な机の上にきれいに畳まれた服が置いてある。


 眠る前はこんなものなかったはずだ。

ウスター殿下が置いていったのだろうか。


 どくん、と胸が鳴る。


『これは契約だ』


 ウスター殿下の真意はつかめない。

アカデミーの同級生といっても、昨日までろくに話したこともなかった。

私をこの城に連れてきて、本当に王太子妃にするつもりなんだろうか。


 広げてみるとそれはワンピースだった。

生成色の布地はシンプルな仕立てながらも、控えめな光沢を放っている。


 これを着てもいいってことなんだろうか……どっちにしろいつまでも下着姿でいるわけにいかないし、昨夜の強行で埃まみれになったドレスにはとても袖を通す気になれなかった。


 ワンピースはさらりと柔らかく肌を包んだ。

飾り気のない生地は軽く、沈んでいた心が少しだけ浮き立つような気分になった。


 窓辺に立ってカーテンを開ける。

すでにかなり高くなった太陽の光を受けてきらめく川辺、一羽の水鳥が羽を休めているのが見えた。


 本当に、国を出てしまったんだな。


 まぶしさに目を細めたとき、ドアがノックされた。


「どうぞ」


 ドアを開けたのはウスター殿下だった。


 ウスター殿下は窓辺に立つ私を見て、一瞬戸惑ったように動きを止めたあと、淡々とした口調で言った。


「少し、外を歩かないか? 王都を案内する」





 昨夜、馬で飛ばした道は昼間に歩くとまた違った風情を見せた。

馬上ではわからなかった、王都にはそこここに川が流れていて、緑であふれていた。


「この国は山が多いだろう、山から流れる雪解け水を利用した農業や酒造業が経済の根幹を支えているんだ」


 ウスター殿下が話す横で、柳の枝がサラサラと風に揺れる。


 私の故郷と全然違う。

王都といってもここは喧騒とはほど遠く、ゆったりとした時間が流れている。


 ウスター殿下は慣れた様子で石畳を歩いていく。 


 こころなしか、アカデミーにいる時より表情が柔らかい気がする。

きっと、この国でのびのびと育ったんだろうな。


「空気がきれいで、素敵なところね」


 どこか木々の香りがする涼しい風が髪を揺らしていく。

ウスター殿下は「気にいってもらえたのならよかった」と言って、空を見上げた。


「でもな、冬は少し覚悟が必要だ。雪がすごくて、1時間もあれば君の体と同じくらいの高さは積もってしまうぞ」


「雪? 雪が降るの?」


 まるでおとぎ話の世界のような、ロマンに満ちあふれた言葉に心が躍る。


「すごい! 私、雪って見たことがないの。そうだ、雪だるまを作ってみたいわ!」


 ウスター殿下はしばらく呆気にとられたように私を見ていたけど、楽しそうに声をあげて笑った。


「ハハッ、いいぞ、100体でも200体でも、好きなだけ作れ」





 湯あがりのほてった肌を夜風が柔らかく撫でていく。

大きく張りだした窓からは宵の闇に包まれた街と青白く光る月が見えた。


 ずいぶん遠くにきてしまったけど、夜の静けさはどこも同じだ。

ターメリック殿下もこの月を見ているのだろうか。


 ふと浮かんだ思いを打ち消すように頭をふる。

いったい、何を考えているんだろう。


 私のような女は王太子妃にふさわしくないと、冷たく言い放った男だ。

ナン嬢のようなしっかり自分の味を持った女がいいと、私を捨てた男だ。


 でも……ぎゅっと胸が苦しくなる。

ターメリック殿下は金曜日もナン嬢と過ごすのだろうか。


 連綿と続いてきた儀式、金曜日の正餐まで彼女に明け渡すというのなら、私にはもう思い残すことは何もない。


 ターメリック殿下はそれでいいんだろうか。


 そのとき、ドアを叩く小さな音がして、私の考えは中断された。

部屋へ入ってきたのはウスター殿下だった。


「夜風はまだ冷たい、体を冷やすぞ」


 ゆっくりと、ウスター殿下は私の横に立った。


「はい、でも、月がすごくきれいで」


 私はそう言って窓の外を見上げる。

月はさっきよりもさらに遠く、街を見おろしている。


「故郷を思い出していたのか?」


 心を見透かしたような静かな声に胸がざわつく。

振り向くと、まるで決まりきったことのようにウスター殿下は唇を重ねてきた。


 じわっと、もどかしい甘さが体の奥に生まれる。


 驚きに見開いた瞳の先、ウスター殿下は静かな目で私を見ていた。


「そんな……これは契約……んっ」


 言いかけた言葉は再び熱い唇に遮られる。

キスの熱に溶かされるように、頭の奥がしびれる。


 ウスター殿下の唇が優しく動くたび、甘やかな波が広がって体の芯から力が抜けていく。


 唇から解放されたとき、私はもう立っていられなくて、崩れ落ちるようにウスター殿下の胸に体を預けていた。


 息が荒く、熱い。


 いつのまにか背中に回されていた腕は、がっちりと私の体を捕まえていた。


「契約なんて、方便だ。ずっと……君が好きだった」


 耳元で聞こえた切れ切れの苦しそうな声に、ざわっと心が波打つ。


「そんな……いつから」


 全然知らなかった……ウスター殿下がそんなふうに思っていたこと。


「初めからだ」


 ウスター殿下はいっそう強く私を抱きしめる。


「アカデミーで初めて君を見たとき、まるで朝露に輝く稲穂のように美しい人だと思った」


 額を沈めたウスター殿下の胸からは、激しい鼓動が伝わってくる。


「でも、君の隣にはいつもターメリック殿下がいた」


 ぎりっと、心の奥にしまっていた痛みが疼きはじめる。

そう、アカデミーで私はいつもターメリック殿下と共にいた。


 ちょっと抜けてるところもあるけど、強くて、明るくて、私はターメリック殿下が大好きだった。

ずっと一緒にいられるものだと思って、それを疑ったことなんてなかったのに。


『君との婚約を破棄する』


 痛みから逃れるように、ウスター殿下の胸に額を押し付ける。


「ごめん……傷ついてるところに付け入るようなことをして」


 ウスター殿下の手が私の手を探って、包み込むように手のひらを重ねた。

じわりと、直に触れた肌から熱い体温が流れこんでくる。


「でも、あの時を逃したら、もう二度と君を手に入れることなんてできないと思って」


 指先が手の甲をゆっくりとなぞっていく。

少しくすぐったくて、私は小さく体を震わせる。


 肌が触れ合うたび、体の中心から熱が溶け出て、ふたりの間の境界線があいまいになっていく。


「契約だなんて、嘘だ」


 手の甲で遊んでいた指先がほどけて、ぎゅっと強く手を握る。


「本当は、ずっと、ずっと……真っ白な君を俺の味でぐちゃぐちゃにしてやりたかった」


 体が、熱い。

激しく打っているのはウスター殿下の心臓か、それとも私のなのか、もうわからない。


 私たちの間を隔てているものなんて、もはや存在しない……いや、もしかしたら最初からなかったのかもしれない。


「いいよ」


 私はウスター殿下を見上げる。

ウスター殿下は顔を真っ赤にして、切なそうに私を見ていた。


「私、知りたい……ウスター殿下の味」


 ウスター殿下の手を強く握り返す。


「教えて」


 私はあごをわずかに傾けて目を閉じた。


 窓の外で、風が枝を揺らす音が聞こえてくる。


 手に絡みついたウスター殿下の長い指は、一度迷ったように力をゆるめてから、再び強く握られる。


 深い静けさに隠された夜の中、まるで不完全なものがその形を補い合うかのように、私たちはぴったりと吸い寄せられていた。





 部屋を包み込む川のせせらぎは、まるで完成された調べのように耳にやさしい。


 ぼんやりと目をひらくと、すぐ近くにウスター殿下の瞳があった。


「おはよう、オーバーブライト」


 なんだか恥ずかしくて、ウスター殿下の顔をまっすぐに見られない。

私は口もとに手を当てるとうつむきがちに言った。


「やだ、起きてたの?」


 ウスター殿下はやさしい目で笑った。


「ああ、ずっと、ずっと君を見ていた」


 口もとを隠した手にゆるく指を絡めると、ウスター殿下は無防備になった唇にそっとキスをした。


 窓からは柔らかい朝日が差し込んでいた。


「明日になったら外遊に行ってた両親が帰ってくる」


 ベッドに座る私に背を向けて、シャツのボタンを留めながらウスター殿下が言った。


「そうしたら、君を正式に紹介するよ」


 それを聞いて少し背筋に緊張が走る。


「あと、君の家にもちゃんとご挨拶に伺わないとな」


 そう言って振り返ると、ウスター殿下は大きくため息をついた。


「やっぱり怒られるかな……こんなふうに連れてきちゃって」


 きまりの悪そうな顔はなんだか子どもみたいで、思わず笑ってしまった。


「ふふふ、そんなに心配しなくても大丈夫よ」


 そのとき、部屋のドアが激しく叩かれた。

ただならぬ様子にウスター殿下の顔がさっと外向きのものに変わる。


「どうした!」


 ドアを開けると、息を切らせながら衛兵が立っていた。


「あの、あの……城門に、ターメリック殿下がおいでで……」


 急に飛び込んできた名前に、どくん、と胸が波打つ。


 ウスター殿下はちらりと私を見てから、静かな声で言った。


「わかった……貴賓室に通しておいてくれ」





 広い貴賓室の隅で所在なさげに座っていたターメリック殿下は、私たちに気がつくとすっと立ち上がった。


「突然のご無礼、大変申し訳ありません」


 懐かしい声に心がざわつく。

ひとりで来たのだろうか、簡素な服を着て頭を下げるターメリック殿下は、ずいぶんと疲れているように見えた。


「ターメリック殿下ともあろう方が、このような小国になんのご用でしょうか?」


 ウスター殿下が淡々と言った。

私は身の置き場がわからなくて、ただ憔悴しきった元婚約者を見ていた。


 ウスター殿下の問いには答えず、ターメリック殿下は私をじっと見た。


「オーバーブライト……」


 名前を呼ばれて胸がぐっと苦しくなる。

ターメリック殿下はまっすぐに頭を下げた。


「ごめん、戻ってきてくれないか」


 低い声が、心を震わせていく。

普段の堂々としたターメリック殿下からはとても想像がつかない、しおらしい態度だった。


「そんな……なにをおっしゃっているの?」


 浮ついた恋にのぼせあがって、積み上げてきた関係を反故にして……学生生活最後の晴れやかな席で私を面白みのない女だと侮辱した男が。


 いまさら……本当に、なんでいまさらこんなふうに、私の前に現れるんだろう。


「そろそろ、タンドール窯に火を入れる時間なのではなくって? 17×19は463でしたっけ」


 ターメリック殿下はうなだれたまま、しぼりだすように言った。


「ナン嬢とは、別れたんだ……あと17×19は573だ」


 横でウスター殿下が小さく「293だろ……」とつぶやくのが聞こえた。


「ナン嬢は本当に魅力的な女性だった。表面はカリッとしていながらそのじつモチモチと柔らかく、身にまとった濃密な甘みと塩気に決して負けることのないふくよかな小麦の香りをそなえていた」


 苛立ちにも似た痛みが胸に刺さる。

それは、私には決して出すことのできない味だ。


「それなら」

「でも……ダメなんだ!」


 私のことばを強い口調で遮ると、ターメリック殿下は泣き出しそうな目で私を見た。


「金曜日の正餐は、オーバーブライト、君じゃないとダメなんだ!」


 発せられた声は貴賓室の空気をしばらく震わせて、やがて遠くせせらぎの中に溶けていく。


 ぐっと喉の奥がつまって、言葉が出てこない。

開いたままの唇は、まるで呼吸の仕方すら忘れてしまったようにその動きを止めている。


 金曜日の正餐……それは、連綿と受け継がれてきた香味の脈動。


 海に生きるものがほんのいっとき地上の光を思う、ささやかで尊い週末の儀式。


 ターメリック殿下は、ターメリック殿下もまた、私と同じように、金曜日の正餐を犯すことのできない神聖なものと考えていた。


 そして……その隣にいるのは、私でなくてはダメだと、他のもので替えなどきかないのだと、そう言っている。


 言葉にならない思いがあふれて、体中が熱くなる。

涙が出そうになるのを唇に力を入れてこらえる。


 きっとこれから先、今回と同じようなことはいくらでもあるんだろう。

いや、もしかしたらもっとひどく傷つくことだってあるのかもしれない。


 でも、金曜日にターメリック殿下の横に立つのは私だけ、なにがあったって、生涯ただひとりだけなんだ。


 ぎゅっと、こぶしを握りしめる。


「ウスター殿下」


 自分でも驚くほどはっきりと、通る声が出た。


 私は、ひどく不誠実なことをしようとしている。

それはターメリック殿下が私にしたことより、はるかに理不尽な裏切りかもしれない。


「ウスター殿下」


 絶望の淵にいた私を知らない世界へ連れ出してくれた人、私を好きだと言って抱きしめてくれた人、情熱のすべてで、私を包み込んでくれた人。


 すうっと息を吸う。


「ごめんなさい」


 せせらぎをせき止めるように、私の声は妙に響いた。


「私……帰ります」


 息があがって、苦しい。

静かな部屋、聞こえるのは川の音と、私の息づかいだけだ。


「オーバーブライト」


 優しい声の方を向くと、ウスター殿下は急に強い光を浴びせられた時のような顔で、ぎゅっと眉根を寄せて笑っていた。


「気にするな、俺は、君が、君さえ笑ってくれるならそれでいい」


 ウスター殿下の笑顔に胸がしめつけられる。


「笑え!」


「ウスター殿下……」


 歯を食いしばって、口角をぎゅっと上げる。


「本当に、ありがとう」


 ウスター殿下の笑顔の奥、窓の外では一羽の水鳥が飛び立っていくのが見えた。





 埃っぽい、乾いた風が強く吹き抜けていく。


 窓の外、ひっきりなしに人の行き交う中央通りからは商人や旅人の元気な声やどこかで楽器を鳴らすような雑多な音が聞こえてくる。


 強い日差しは一点の曇りもなく今日も街に降り注いでいる。


 ふと、ゆるやかなせせらぎの中、木々の間を抜けていく風の香りがよみがえる。


 冬になったら、あの街には私の背丈ほどの雪が降り積もるのだろうか。

その雪をこの手に受けることはもう叶わない。


 そっと目を閉じる。


 私があの静かな川辺の陽だまりに戻ることは2度とない。

でも、あの夜、体の隅々まで熱く浸みわたったウスター殿下の味は、生涯消えることなく私のなかに残るんだろう。


「オーバーブライト」


 耳に馴れた声に目をひらくと、正装に身を包んだターメリック殿下がいた。


「そろそろ時間だぞ」


 ターメリック殿下はそっと私に手を差し出す。


「行こう」


「はい」


 私は頷いて、ターメリック殿下の手をしっかりと握った。



おしまい

個人的にはエビフライカレーが好きです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ