8. 薔薇の姫、白百合の騎士
「私この演目大好きなの! いつかお姉ちゃんと舞台に立ちたい!」
「良いわねえ、姉妹でダブル主演! きっと客席はいっぱいね」
リリーは夢を見ていた。幼い頃の夢だった。
伸びやかに歌い、軽やかに踊る姉の隣で辿々しく真似をする。
リリーが好きな演目は、姫と女騎士、二人の女性のお話だった。
お姫様が幸せになる為に女騎士は命を賭けて戦う。そんなお話。
最後は王子様が現れて二人のピンチを救い、ハッピーエンド。
「お姉ちゃんがお姫様で私が騎士よ!」
「まあ、リリーが守ってくれるの?」
「もちろん!」
姫役の衣装がとても豪華で、それを着る姉が見たかった。それに、かっこいい剣捌きを披露する女騎士の役に憧れていた。
その後、リリーは憧れのあまりに劇団の小道具の短剣をこっそり持ち出して、挙げ句の果てにそれを無くしてしまい、顔が腫れ上がるまで叩かれた。姉はそれを庇ってくれて、「もう、どっちが騎士なの?」と呆れた笑顔でリリーを叱った。
優しく、尊い記憶の夢だった。
——……
目を覚ますとそこは自分の部屋だった。
おそらくノアが運んでくれたのだろう。丁寧にも体には毛布がかけられて、ベッドの横には水差しが置かれていた。
状況を理解して素早く起き上がり、髪の毛を乱暴に掻きむしった。
ガタガタと手が震える。頭は真っ白で、絶望だった。
この衝動のまま、窓から飛び出して死んでしまいたい。何もかもを忘れてあの世で姉に会いたい。
ナイジェルの全てがリリーの心を抉った。
姉を捨てたくせに。姉を愛さなかったくせに。姉を殺したくせに!
リリーはナイジェルに対して、悪どい傲慢な男、吹けば飛ぶような軽薄な男、そんな男を想像していた。
絵に描いたような悪人であれば、怒りのままに殺すことができた。
しかし実際のナイジェルは、ローズが日記に書いた通りの人が良さそうな男だった。
「可憐な子だ」と言ったナイジェルの瞳に下卑た下心は感じられず、「不自由はしていないかい?」の問いかけは、心から一介のメイドを気にかけているような口ぶりだった。そんなナイジェルの言動全てがリリーを動揺させていた。
きっと、ローズの妹だとは気付いていない。
そういった類の、驚きや疑念、恐れなどは感じなかった。
しかし、「初めて会った気がしない」と言った時の表情は、自分の顔立ちのどこかに誰かの面影を見つけて、まるでその人をひどく懐かしむような……慈しむような、そんなものだった。
何故あんなに優しい顔が出来る? 照れくさそうにヴィオレッタと話すナイジェルは、虫も殺さぬ穏やかな男に見えた。
「歌が好き? ……ええ好きよ、大好きよ。でも私は歌うより、お姉様の歌を聴く方がもっともっと好きだった!」
リリーは吐き捨てるように声を上げた。
姉を捨てたことに変わりはないのだ。いくら優しい男だとしても、衰弱していくローズを助けなかった。ローズがどれだけ願っても、最期まで会うことはなかった。表でどんな顔をしていても、裏では何を考えているかなど分からない。
リリーはローズの日記に触れ、復讐の炎を守った。
◇
次の日から、リリーはまたヴィオレッタとして完璧に生活を送った。
よく働き、よく笑って日々を過ごす。そしていつも通りにクララを観察し、復讐の機会を狙う。
注意深く見ていれば、一つ分かったことがある。クララは御者のジョンという男にご執心だ。
クララは、他のメイドがジョンと会話を交わすたびに、そのメイドに辛く当たる傾向がある。
ヴィオレッタは、ジョンと話す機会を伺った。
そして意外にもそれはすぐやってきて、簡単に成功した。ジョンは茶髪の軽い男でいつもフラフラと仕事をしている男だった。
「まさか噂のヴィオレッタから話しかけてくれるなんてねえ」
にやにやと笑い、ヴィオレッタを眺める様子はかつてのグスタフと同じ、下心を全く隠さない下品なものだった。
「ミスター・ジョンの生き方を見ていると、少し気が抜けるような気がして……」
壁に背をもたれさせ、大きな瞳を向けると、ジョンは嬉しそうに近付いた。
「もっと相手してあげるよ?」
「まあ、ふふ、魅力的です」
頬を赤らめて控えめに笑えば、ジョンは軽やかに口笛を吹いた。
「ちょっと、ここにいたの!? ヴィオレッタ!!」
突然甲高い女の声が聞こえて、振り返る。
狙い通り、その声の正体はクララだった。
「あー……俺、行くね」
いつの間にかジョンが姿を消し、ヴィオレッタが「申し訳ございません」、と声を上げようとした瞬間、突如頬に鋭い衝撃が走る。
パン! と乾いた音と共に、ヴィオレッタの顔が勢いをつけてぐるりと横を向いた。
——始まった。
それからというもの、ヴィオレッタがジョンと話すたびにクララが頬を張った。長い説教と、嫌がらせが激化していった。
時にヒステリックに叫び、時に皆の前に立たせて叱りつけ、時に寝かさぬ程の仕事を振られる。
ヴィオレッタは、クララが発狂するたびにほくそ笑んだ。
「流石にやりすぎよね……」「ああ恐ろしい」
そんな声がちらほら上がる。
皆恐ろしくて何も言えないが、ヴィオレッタに同情の視線を向けていた。
ヴィオレッタは確信していた。クララがどれだけ憤慨しようが、刺繍の腕をエレガルに買われているヴィオレッタを、簡単にクビにすることはできないのだと。
それから数日が経ち、ギラギラと太陽が刺す暑い午後。クララが突然、大声で騒ぎ立て始めた。
「私のブローチが無いのよ!」
屋敷中のメイドたちが集められ、部屋の中は騒然とする。
なんでも、この部屋に置いておいた自分のブローチが無くなってしまったようで、何者かに盗まれたと疑っていた。
「最後にこの部屋にいたのは?」
「ヴィオレッタ……です」
誰かがそう言うと、クララの口元が歪んだ。
人を疑っている——というよりもはなからヴィオレッタを疑っていた。
「確かに最後この部屋を出たのは私ですが……」
ヴィオレッタは、狼狽えたように後ずさる
「ヴィオレッタ。男に現を抜かして、最近ずいぶん浮かれてるじゃない」
まるで犯人だと決定つけるように、冷えた笑顔でヴィオレッタを見ていた。
「あれは奥様からいただいた高価なものよ。それをつけてまで男をたぶらかしたかったのかしらね?」
「誤解です! 私ではありません!」
祈るように手を組み必死に否定するヴィオレッタをて、フンと笑い、それから騎士達を呼んだ。
「良いわ、徹底的に調べるから。ほら、あんた達が調べて。体が終われば部屋もよ」
騎士達は、女性の……しかもヴィオレッタの体をくまなく探すことに躊躇した。
動きの悪い騎士達に、クララは「早く!」と金切り声を上げて急かす。
その声に逃げられなくなった騎士達は、「すみません」と呟きヴィオレッタの体を遠慮がちに触った。
すると——
ヴィオレッタのエプロンのポケットから、一つのブローチが出てきた。
「ほら見なさい! 泥棒め! これは旦那様と奥様に報告します! 罪を認めなさい!」
クララが勝ち誇ったように叫ぶ。
周囲がざわめく中、ヴィオレッタは青ざめた顔で首を振る。
「ち、違います……私は……」
周りを見渡すも、皆顔を合わせぬように視界を彷徨わせる。クララに目をつけられれば解雇。生活が掛かっている使用人は、ヴィオレッタに罪はないと察していても保身のために何も言えなかった。
「ヴィオレッタは今日限りで解雇よ。奥様や旦那様でも、泥棒を雇い続けるなんてことはなさらないでしょうから」
「本当に違います! 誓って、盗んでおりません!」
——その時だった。
「僕がどうしたのかな?」
穏やかな声が、空間を支配した。
「だ、旦那様!」
クララが飛び上がるように振り向き、慌てて礼を取る。
皆もそれに続いて頭を下げた。
そこにいたのは、ナイジェルだった。
「わ、私のブローチが失くなってしまって……! 調べていたらヴィオレッタのポケットの中に入っていたのです!」
クララはわざとらしく怖がるような声を出す。
皆息を呑み、ナイジェルの言葉を待った。
「それは大変なことだ! ヴィオレッタ、本当かい?」
「いいえ! 誤解でございます!」
ナイジェルが手を顎に当て考えるような動作を取ると、クララは勝ち誇ったような笑みを向けた。
「旦那様! 盗みは立派な犯罪でございます。即刻ヴィオレッタの処分をお考えください!」
「処分……そうだね——しかしクララ、そのエプロンについているものは?」
ナイジェルがクララのエプロン裾を指差す。
皆がそこに目線を向けると、長い裾に引っ掛かるようにしてブローチがぶら下がっていた。
一瞬のうちに空気が凍り、クララは信じられないという顔をして、すぐに怒鳴り返す。
「な、どうして!?
だってブローチは、ヴィオレッタに……!
い、いえ、これじゃないわ……違います! ヴィオレッタが持ってるブローチこそ私が探していたものです!」
錯乱するように慌てふためくクララに、ヴィオレッタが肩をビクビクと振るわせて小さな声を出した。
「本当に、違います……! これは私の物なのです。ほらここに、名前が……」
ヴィオレッタの持っているブローチの裏側には、確かに小さく名が刻まれていた。
それを見たナイジェルが「本当だ!」と声を上げたのを皮切りに、皆が口々にヴィオレッタを擁護した。
クララは無様に何か言葉を叫んで皆を黙らせる。
静まり返った空間で先に声を上げたのはヴィオレッタだった。
「誰にでもそういうことってありますもの。私も紛らわしいことをしてしまって、申し訳ありません」
ヴィオレッタは被害者だと言うのに。その可憐な謝罪に皆うっとりと息をついた。
クララはナイジェルの前だということをすっかり忘れたようで、何も言わずに大きな音を立てて去った。
クララが退室すれば、皆口々にクララを非難する。その言葉に耳を傾けながら、ヴィオレッタは笑った。
——そろそろかしら。
◇
風も吹かぬ、静かな夜。
ノアは一人、庭園を歩いていた。
美しく咲き乱れる赤い薔薇を見ると、様々な感情が湧き上がるので、あまり近づきたくなかった。
しかし、その日だけは何故か自らの足で薔薇の庭園を目指していた。
ナイジェルの発言。突然気を失ったヴィオレッタ。
その後何も変わりない彼女は、もしかすれば本当にただ体調を崩しただけなのかもしれない。
それでも、ノアの中で渦巻く違和感は形を成し始め、大きく膨れ上がった。
「似ていないが、……どこか、似ている」
要領の得ない言葉をぼそりと呟く。
エレガルに憧れてここへ来たというヴィオレッタの野心にはあまり感心しなかった。それなのに、つい気にかけてしまうのは何故だろうか。
女達からの評判が悪いグスタフと関わっていると聞いた時は、助けてやらなければと思った。
結局、すぐグスタフが問題を起こしこの屋敷を去ったが。
そして今はメイド長のクララに目をつけられているという。
大きなため息を吐いて、そのまま長い時間をぼんやりと過ごした。




