7. ナイジェルの帰邸
『ナイジェル様がお帰りなったと聞いた。
とても会いたかった。鍵を閉められてしまって、今日は無理だった。
部屋の前で足音が聞こえるたびにナイジェル様かしら、と思うけれど、訪れはなかった。
明日こそは会えるかしら。
どうして突然、エレガル様を妻に迎えたのか、聞きたい。きっと直接お話をすれば分かり合えるはずだから。』
——……
ヴィオレッタは相変わらず、メイド長クララのイビリを交わしながら情報を集めていた。
クララの弱点になるような決定的な何かが欲しかった。
しかし分かったことは、権力と男に媚びて、簡単に嘘をつくことくらいだった。
人の手柄を自分のものにするのが好きなようで、ヴィオレッタが縫った刺繍を、自分が縫ったとエレガルに話しているのを聞いた時はつい笑ってしまった。
エレガルはすっかり騙されていたが、控えていたノアが「では、これからヴィオレッタではなくミセス・クララにお任せしましょう」と提案すれば、「ええと、私は使用人の管理で忙しいので……」と慌てて拒否していた。
ヴィオレッタは棚を磨きながら次の手を考える。
どうやってクララを潰すか。
いっそ手っ取り早く殺してしまいたい。でもそれじゃつまらない。地獄を見せなければ、意味がない。
すると突然、部屋の外からバタバタと騒がしい音がなり、様子を探るため雑巾を持った手を止めて、外へ出た。
「ご主人様がお帰りになったそうよ」
そんな話し声が聞こえ、こっそり耳を傾ける。
「え? 明日だったはずじゃないの?」
「私もそう聞いていたけれど……とにかく急いで!」
ヴィオレッタの心臓が大きく跳ねる。
遂に、出会うことになるのだ。姉を死に至らしめた、諸悪の根源と。
ヴィオレッタが——リリーが強く恨む一番殺したい相手。最愛の姉、ローズの仇。王立オペラ座の希望の星を奪った、憎い男。
どんな顔をしている?どんな態度を取る?
ガタガタと体が震える。
怒りか、恐怖か……いや、これは武者震いだ。
ヴィオレッタの全細胞が、ナイジェルに復讐を! と殺気立っている。
はあ、はあ、と荒い呼吸をして、どうにか込み上げる苛立ちを抑え込むように、目をぎゅっと閉じた。今ここで、高ぶった感情に合わせて涙を流すわけにはいかない。
ナイジェルに出会う策を練る。とにかく動かなくては。
「ヴィオレッタ?」
突然声をかけられ、ハッとして顔を上げた。
黒い髪がさらりと揺れる。目の前にはこちらを覗き込むノアがいた。
「大丈夫か? 顔色が悪い」
その声は心配のようであり、何かを探るようでもあった。
ヴィオレッタは小さく息を吐き、そしていつもの朗らかな笑顔を浮かべる。
「本当ですか? ご心配ありがとうございます。
……旦那様が帰っていらっしゃったようですね。挨拶をしなければ、と思うと少し緊張してしまって」
照れくさそうに言うヴィオレッタに、ノアは少し考える仕草を取り、それから一瞬にしていつもの威厳ある無表情に戻った。
「ああ、そうだな。では早速今から旦那様に紹介する。着いてこい」
「……はい、ありがとうございます」
◇
重厚な扉の前で、ノアは一度だけ足を止めた。
「ここが旦那様の部屋だ。失礼のないように」
「承知いたしました。ミスター・ノア」
低く、釘を刺すような声だった。
ヴィオレッタは従順に頷き、静かに息を整える。
これ以上ないほど心臓が音を立てて血液を巡らせている。気を抜けば過換気を起こしてしまいそうなほどに気が昂っていた。
ノアが扉を三度叩く。
「旦那様。新しく雇った使用人を、お連れしました」
「入りなさい」
中から聞こえた声は、意外にも柔らかく優しい声だった。
ヴィオレッタはごくりと唾を飲み、一筋の汗を垂らす。
そして、ゆっくりと扉が開かれた。
本棚が高い天井まで届く、荘厳な執務室。
机の向こうに座る一人の男の姿を見る。
金に近い淡い栗色の髪。線の細い体躯に、どこか頼りなさげな立ち姿。
地味ではあるがそれなりに整った顔立ちと、仕立ての良い服を着こなす姿が、紛れもない貴族の身分を示している。
——この男が、ナイジェル・ベルナール。
ヴィオレッタの予想は大きく外れた。
目の前でヴィオレッタに微笑む男はブラウンの瞳を細め、和かに人の良さそうな笑顔を浮かべていた。
ヴィオレッタは、動揺を悟られないよう完璧な微笑を浮かべる。
「初めてお目にかかります。
旦那様がご不在の折にご縁を賜り、このたびお仕えすることとなりました。
ヴィオレッタと申します」
スカートの裾をつまみ、深く礼をする。
ナイジェルは少し驚いたように目を瞬かせ「ヴィオレッタ……」と小さく呟いて、そのまま、まじまじと見つめた。
「噂には聞いていたけれど、ずいぶんと、若くて……」
言葉を探すように視線が泳ぐ。
「可憐な子だね」
「恐れ入ります……」
その様子を、ノアはじっと見つめ、それから説明を付け足した。
「こちらは、元針子でして。
現在はメイドとして働いておりますが、時に奥様にもお仕えしております。
仕事ぶりも真面目で、評判も悪くありません」
淡々とした紹介を聞いたナイジェルはどこか落ち着かない様子で、目線を動かす。
「君の顔を、見せて」
命令というよりは、遠慮がちに頼むような言い方だった。
ヴィオレッタのは言われた通りに少し顔を上げ、金色の瞳でまっすぐにナイジェルを捉えた。
その瞬間、ナイジェルは言葉を失ったように息を呑んだ。
「……ああ」
まるで、何かを思い出すような目だった。
「初めて会った気がしない」
ヴィオレッタは大きく目を見開く。これは、演技ではなかった。
ナイジェルは、言葉を失ったままのヴィオレッタに微笑みかけて、優しく聞いた。
「この屋敷で、不自由はしていないかい?」
「はい。皆様に親切にしていただいて……
まだまだ至らぬ身ですが、精一杯努めます」
「そうか……うん、それがいい」
ナイジェルは満足そうに頷いき、ノアが一歩前に出た。
「では、私達はこれで失礼いたします。
ヴィオレッタ、礼を」
言われたままに深く頭を下げ、ノアに続き部屋と廊下の境を跨いだその時。
「……あ、待って」
ナイジェルが、思わずというように椅子から腰を浮かせて声をかけた。
ノアもヴィオレッタも足を止める。
「その……君は、歌は好きかい?」
唐突な問いだった。
「ああ、別に、深い意味はないんだ」
ヴィオレッタは、震える声をなんとか抑えながら、静かに答えた。
「……少しだけですが」
ナイジェルは、嬉しそうに目を細める。
「また機会があれば、聞かせてほしい。
無理にとは言わないけれど」
「光栄でございます」
それだけ言って、そのまま書斎を後にした。
胸が焼け付くように痛い。
扉が閉まった瞬間。ヴィオレッタの視界が白く眩んだ。
「おい、大丈夫か? ヴィオレッタ?」
足が力無く崩れ落ち、ヴィオレッタはそのままノアに抱えられて眠るように気を失った。




