49. ささやかな復讐
ナイジェルはノアから渡された燭台を一つ持ち、エレガルの部屋へと向かった。
動物の鳴き声に似た声は、部屋に近づくにつれて、鮮明な叫び声に変わっていく。
ゆっくりと、扉を開いた。
「ああ! ナイジェル!」
箱から飛び出す玩具のように、ナイジェルに飛びかかって縋りついた。ぐちゃぐちゃに崩れた化粧と、乱れた髪をさらに振り乱す姿は亡霊のようであった。
「私を助けて!!! 殺される!!!」
ナイジェルの瞳に、優しさや慈悲の色はなかった。
ただ淡々と、狂乱するエレガルを眺めていた。
その瞳は虚無に近かった。
「さようなら、エレガル」
ただそれだけ言った。
「え、」と情けない声を出すエレガルを、ナイジェルの後ろに立っていた騎士たちがぞろぞろと動き出して捕える。
「何!? どういうこと!? どうして私なの!? ナイジェル!! ねえ助けて!!! ナイジェル!!!」
引き摺られながら運ばれるエレガルをぼんやりと見つめていた。そして、姿が消え、その声が聞こえなくなるまで立ち続けていた。
「旦那様」
ノアが控えめに声をかければ、ナイジェルは呟いた。
「呆気ないね」
そして振り向いてノアに笑いかける。
「この伯爵家を終わらせるよ。人の犠牲の上に、存続を望むことはしない。ノア、最後の仕事を頼めるかな」
ノアは真っ直ぐとした瞳を向けて、言った。
「……伯爵家の執事としては、です」
ナイジェルは目を見開き、そしてふっと小さく笑った。
「ありがとう」
◇
その後、ベレナール伯爵家は、その名を歴史から消した。
当主ナイジェル・ベレナールは、自ら王室へ爵位の返上を申し出た。かつての繁栄を誇った領地や広大な屋敷は、国へと接収され、社交界で「ベレナール」の名が囁かれることは二度と無かった。
使用人たちには十分な退職金が渡された。
そして推薦状も。一人一人にしっかりとした推薦文が書き留められたそれによって、次の奉公先に困る者はいなかった。
ナイジェルが平民に降格したことで、アデライドの「伯爵夫人」という立場は消失した。彼女は息子が用意した小さな一軒家へと移された。
自分を「奥様」と呼び頭を下げる者は一人もいなかった。慎ましやかに生きていくだけの金はあるが、ただの未亡人となったアデライドには、誰もついていかなかった。
彼女は自らの手で質素なパンを切り、自ら水を汲む。
馬鹿にしていた平民に生活を教わる。
かつての栄光を忘れられぬまま、傲慢に当たり散らそうとしても相手をしてくれるものすらいない。
慣れない生活からかすぐに体調を崩した。寂しく息を引き取るその瞬間でさえ、息子が顔を見せることは一度もなかった。
エレガルは公式な裁判の場に立たされた。
折檻による使用人の死は、本来貴族の名の陰に隠蔽されるものであった。しかしベレナール家が消えた今、エレガルの罪を隠すものは無くなった。
結果として彼女に下されたのは刑は、北の修道院への生涯に渡る奉公だった。
しかし、修道院へ送るためのエレガルを乗せた馬車は、事故に遭った。幸い、その事故から死人は出ず、怪我をした者も擦り傷程度だった。
ただ、一人、エレガルを除いて。彼女は忽然と姿を消した。
豪華な馬車も、飾られた芸術品も、夜通し灯されていたシャンデリアも無い。旧伯爵邸を最後に出た者は当主であったナイジェル・ベレナールだった。
なんでも、彼は庭に植えられた一部の薔薇を掘り起こしていたと言う。
◇
「旦那様」
伯爵邸を出る最後の日——リリーはナイジェルのいる部屋の扉を叩いていた。扉がゆっくりと開かれ、中に招かれる。
「僕も丁度、君と話そうと思っていたんだ」
ナイジェルはそう言って、リリーを椅子に座らせた。
二人だけの空間は妙に落ち着いていた。
「……私は、たくさんの罪を犯しました」
リリーが意を決した声で話を切り出せば、ナイジェルは悲しげに頷いた。
「何故、咎めなかったのですか?」
「それは……僕の自己満足だよ」
ナイジェルは少し考えた後、それから続けた。
「大切な人を思い出させてくれた感謝も勿論あるけれど……。
君を許すことで、僕も許されたいと言う狡い気持ちがあったのかもしれない。
それとも、君が死に物狂いで果たした他の者への復讐を知って、僕が都合よく溜飲を下げている罪悪感かな」
ナイジェルが重々しく浮かべる表情は自責の念が見て取れる。
「何もかも僕のせいなのに、僕を裁く法はない。自分で罰を下そうと全て自己満足だ。君もノアも僕を責めず、情けない背中をさすってくれた。
罪の償い方が分からない。だから、償えないもどかしさを、君と共有したかったのかもしれない」
やがて、ナイジェルはリリーの前で音を立てて床に両膝を突いた。
「ローズは僕なんかと出会わなければ、今頃幸せに暮らしていた筈なんだ。そして君は最愛の姉を失わずに済んだ。夢を追いかけ、二人で舞台に立っていたかもしれない。復讐など考えず、罪を犯すこともなかった。僕が殺したんだ。そして君の人生を捻じ曲げた」
自身の身体を小さく丸め、額が床につくほどに頭を垂れる。
「許されることじゃない。本当に、申し訳ない」
「旦那様……、」
リリーは椅子から腰を離し、顔を上げるように言った。しかしナイジェルはリリーの足元に崩れ落ちたまま、動こうとしなかった。
地面にポタポタと雫が落ちていくのがわかる。掠れた声からは様々な感情が見て取れた。ナイジェルが見せる謝罪は、ひどく痛ましいものだった。
「それに……」
ナイジェルは自嘲的な声を上げた。
「僕は君のことを君として見ていなかった。君をヴィオレッタと呼び、ローズを模した理想の人形のように君を眺めていた」
ナイジェルはローズのことを思い出してから、リリーの事を、ローズの妹として、屋敷を支える使用人として、一人の人間として、大切に想い扱ってくれていたのが見て取れた。かつてのような行き場のない熱は浮かんでおらず、初めてしっかり目が合った。
「だからこそ私は、旦那様を信じたのです」
リリーも同じだった。初めて復讐という目的を通さずに、姉が愛した一人の男としてナイジェルを見た。装い続けた偽りの表情を解いた。
「旦那様がずっと、私を通して姉を見ていることが分かったからこそ、あなたの愛が本物であると信じることができました。思い出した時に、きっと涙を流してくれるだろうと思った……」
膝をついたままのナイジェルの前で、リリーも同じく膝をついた。そして彼の両手を取り、強く包み込む。
「旦那様、お姉ちゃんと……ローズと血を分けた姉妹として、思うことがあります」
リリーは穏やかでありながらも、咎めるような声を出した。
「姉が、貴方と出会わずに幸せになりたかった、なんて思うはずがありません。これは、断言できます。
姉は辛くとも、ここを離れなかった。絶望せず、ただひたすら貴方を信じて待った。それが何よりの証拠です」
ナイジェルは、また涙を浮かべた。きっとあれから何度も流した涙だ。この人は、これからもずっと枯れることなく、姉を想って泣くはずだ。
「天に昇る瞬間ですら、貴方の名前を呼んでいたのに、ずっと待っていたのに、最後にどうして私の元へ来たのか、疑問に思っていたんです。
……ノアに言った通り美しい姿のまま貴方の記憶に残りたかったと言うのも嘘ではないはずですし、最後に妹である私の顔を見たいと思ってくれたのかもしれません。
でも……多分、それだけじゃない」
リリーは、鼻を啜った。感情のまま喉を引き攣らせるが、涙を流し続けるナイジェルを見て、妹として感じたことを言わなければならないと、手に力を込めた。
「……姉は、全て知っていたのではないかと思います。
そして貴方がいつか自分を思い出してくれる事を望んだ。
消えゆく意識の中、その願いを私に託す為に、私の元で息を引き取ったんじゃないかって……。
まさか私が、復讐に燃えるなどは——思っていなかったでしょうね」
これが、リリーの出した結論だった。
「旦那様、これを……。姉が、最後まで守り続けていた宝石です」
リリーはローズの瞳に似た真っ赤なルビーの宝石をナイジェルに手渡す。
「これは、形見だ、君が持っていた方が、」
「いいえ。私は旦那様に、これを持っていて欲しい」
リリーの中に、ナイジェルへの怒りが全くないとは言い切れない。姉はどんな結末になろうともナイジェルと出会い愛し合う事を選ぶだろう。しかし姉を愛していた妹としては、ナイジェルが言った通り二人が出会っていなければ、と思ってしまう時もある。
「私からの、ささやかな復讐です。
姉の瞳に似たこの宝石をずっと手放さないで。これを見る度に姉のことを思い出して、囚われて、もがいて欲しい。もう、決して忘れないように」
ナイジェルの部屋からは、二人の啜り泣く声が長い間響いていた。
扉の外には、ノアが立っていた。
優しく目が伏せられ、そして静かに、その場を離れた。




