4. 料理長 グスタフ
『良くしてくれると思っていたけれど、善意からじゃなかったのね。彼の舐め回すような目線が気持ち悪い。
出される食事は明らかに色が悪くて、強いカモミールの香りが鼻につく。
あの時、迫られた時……なんとか振り切って逃げたけれど、応じればよかったというの? そうすれば、この食事から解放されたの?
お腹が空いた。この子に、ちゃんと栄養を与えたいのに。
ナイジェル様は、まだ帰ってこない。』
——……
初夏のぬるい風が、ベタベタと肌に張り付つく。
ヴィオレッタは屋敷の庭園を歩き、小さな温室を見つけた。不揃いな鉢と木箱が並び、むせ返るような植物の匂いが漂っていた。
「ここね……」
料理長のグスタフが趣味で薬草やハーブを育てている話は、メイド達から簡単に手に入る情報だった。
時間が十五時を回る頃。グスタフは毎日ここへやってきては今日の食事に使う物を取っていくという。
ヴィオレッタは静かに待った。やがて土をふむ足音が近付いてきた。
「お前、何をしている?」
喉が埋もれているようなくぐもった男の声が聞こえ、ゆっくりと振り返る。
「まあ、すみません。庭園を歩いていたら良い香りがした物ですから、気になってしまって」
大きな瞳で目線を合わせると、男は息を呑み、そして「なんだそんなことか」と緩い声で言った。
太く短い首。
脂ぎった大きな鼻に、肉に埋もれた小さな目。
前に突き出た腹を揺らす中年の男。
この男がグスタフ。醜い風貌だ。
ヴィオレッタは湧き出る嫌悪感をぐっと飲み込み、恋に落ちた乙女のように頬を染めた。
「私、ヴィオレッタと申します。もしかして……料理長のミスター・グスタフですか?」
「ふむ、君がヴィオレッタというのか。噂は聞いているよ」
「まあ、知っていてくださったのですね、良い噂だと良いのですけれど……」
「ああもちろんとも。噂通りの女だ。可愛い顔に良い体つき」
グスタフは膨らんだお腹をガサガサとさすりながら、下心の孕んだ視線をねっとりと舐め回すようにヴィオレッタの体に這い回らせた。
ヴィオレッタは意を決して丸々と太った硬く湿った手を握る。
「ミスター・グスタフのこと、ずっと気になってたんです。
私、実はハーブに興味があって。と言うのも、奥様がお気に召すようなハーブティーを淹れたいのです。教えていただけませんか……?」
上目遣いでそう言うと、グスタフの口元がだらしなく歪んだ。
「ああ、良いとも。感心するよ、毎日ここへおいで」
「嬉しいです! ではまた明日……あ、そうだ。ここで会う事は秘密にしていてくださいね。奥様には驚いてもらいたいので」
控えめに片目を閉じると、グスタフは顔を赤らめて言った。「ああ、二人だけの秘密だ」
別れた後、ヴィオレッタは走った。
洗い場へと辿り着き、手を荒々しく洗う。
汚い、臭い、気持ち悪い。洗っても洗っても、脂がまとわりついているようで吐き気を催す。なんて醜い男だ。
グスタフに近付くため自ら手を握ったというのに、その嫌悪感は膨れ上がるばかりで消えない。
姉はあんな男に迫られた。きっと誰にも助けてもらえなかったはずだ。なんとか抵抗した姉の心境は、どれほどまでに恐ろしかっただろうか。
ヴィオレッタは瞳を閉じた。何度流しても、涙は枯れないままだ。
「……私、きっとやり遂げるから」
ひとしきり涙を流した後、冷たい水で顔を洗えば、少し落ち着いた。
◇
何もかも順調だった。
あれから毎日グスタフのつまらない薬草語りを聞いていた。
「博識ですね」なんて褒めながら少し手に触れれば何でも話してくれる。数日も経った頃には薬草だけではなく、身の上話なども話し出すようになった。
それこそ、武勇伝という名のローズに対する仕打ちまで。
「ヴィオレッタは優しく清廉だ。そして賢い女。
……少し前、君の様に派手な女がこの屋敷にいたがそいつは人を誑かす娼婦だった」
「……娼婦、ですか?」
ヴィオレッタは感情を消して、耳を傾けた。
「そうだ。俺も被害者だった。エロい体を見せつけて誘う癖に、いざ抱いてやろうと思えば被害者ヅラをしやがった。忘れられた愛人の立場でな。まあ、俺が痛い目を見せてやったが」
グスタフの語気が強くなる。ヴィオレッタは煽る様に問うた。
「まあ、どういうふうに?」
「流石娼婦といったところか……、旦那様を騙して子供を孕んでた。誰からも望まれていない子供。そいつが生まれればこの家の秩序は乱れ、淫乱の血筋を引き継いだ子が、また更なる被害者を産む。
そう思った俺は、その最悪の事態からこの伯爵家を救った」
グスタフはまるで英雄にでもなったかの様に堂々と話した。そして、「誰にも言うなよ」と笑い、花壇に咲いた花を掴み取る。
「カモミールはな、堕胎作用があるんだ。それが幸いしたのか、後に子供は流れたと報告を受けた! 奥様は大層喜ばれていたし、俺はこの家を救った。それに、当然の報いだと思わんか?」
「……ミスター・グスタフったら、悪いお人」
揶揄う様に言えば、グスタフは唾を撒き散らしながら大きく笑った。
「ヴィオレッタは、そうはならないでくれよ」
ヴィオレッタの握りしめた手からは血が滴っていた。
自分の爪がその手に深く食い込み皮膚を裂いていた。




