48. ナイジェルの決断
ローズとナイジェルが、もう二度と会えないのは、エレガルがローズを殺したからだ。ナイジェルだけじゃない。リリーも、ノアも、王立オペラ座の皆だって会うことはできない。
いまだ地面に這ったまま、腹の苦しみを何とか逃そうと浅い呼吸を続けるエレガルを見下ろす。
「よく密室で、しかも一人で私を挑発しようと思いましたね。貴族の力じゃ、平民には到底及ばないのに」
ヴィオレッタは足を向けた。
「ほんと、傲慢」
そして勢いをつけて蹴り上げれば、かはっと息を吐いてまた地面に転がった。
「お、おまえ……ね、なにをしてるか分かって、」
「ええ分かってます。腹を殴って、そして蹴りました」
ヴィオレッタはふと思いついたように戸棚から布のテープを取り出して口元と手元に貼り付ける。
「まあ、流石! 奥様はどんな装飾品も似合います……! 煩い口元を抑えられたその姿! あのメイド長クララよりも魅力的です!」
支えていた時のようにわざとらしく声を上げれば、エレガルは必死で喉から呻き声を出し、陸に上げられた魚のように体を揺らして抵抗した。
「ええと、折檻の方法は……マルグリッドに教えてもらったのは何だったかしら……、ああ、思い出しました! あの時の台詞まで。そっくりそのまま言ってあげましょうね」
そしてリリーは高らかと芝居らしく声を上げた。
「髪用の熱した棒で肌を焼いてあげましょうか?
それとも、毒でその喉を焼く?
水に沈めてあげても良いわ。
まあ、お前に子供はいないから、あの女の時ようにその寒さで子を殺す事はできないけれど!」
エレガルは目を大きく見開いてくぐもった声を出し続ける。
「それと……貴女は鞭がお好きでしたね。鋏も使いたいし、小屋に閉じ込めるのも捨て難い」
そう言ってエレガルの頭を硬い靴で踏みつける。
最初は、乗せるだけ。ゆっくり、ゆっくり体重をかけていく。
エレガルの悲鳴はどんどん切羽詰まり、大きくなっていく。その痛さに顔を真っ赤にして歪めていた。
「大丈夫ですよ。まだ殺しません」
——その時だった。鍵の閉めていなかった部屋の扉がキィと音を立てて開いた。
リリーは咄嗟に振り向いたが、その人物を見てふっと笑い、足を離して近くの椅子に腰掛ける。
そして転がったままのエレガルに、ニコリと笑いかけた。
「さて、王子様の登場です」
エレガルは目線だけを上げ、その人物を見て安堵のような表情を浮かべる。そしてすぐ縋るように「んん!」と声を上げた。
「流石、人望があったみたいだ。マルグリッドの時は皆死ぬまで素知らぬふりだったが……今回は助けてやって欲しいと何人かから申し出があった」
部屋に入ってきた黒髪と黒い瞳を持つ、綺麗な顔の王子様——ノアはガチャリと鍵を閉めてはあ、とため息をつく。
「何をした?」
「腹を殴りました。蹴りを入れて、顔を踏みつけました」
それを聞いたノアは思わずと言ったように笑った。
エレガルは目に涙を浮かべながら、「んん! んんんん!」と助けを求める。
「良かったよ」
ノアはエレガルをチラリと見やって続ける。
「リリーが無事で」
そして椅子に座るリリーの背後から優しく手を回し、腰をかがめて頬にキスを落とした。
エレガルは、ヒュッと喉に空気を滑らせて、眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いた。
「まあ、何ということでしょう……!」
リリーは大袈裟に驚いた顔を作る。
「王子様が選んだのは、倒れる姫では無く、悪者であるはずの使用人でした」
「こいつが姫だなんて笑わせる」
ノアは蔑むような目で無様に転がっている女を見下ろした。
エレガルは絶望に顔を歪ませ、「んん! んん!!!」と喉から掠れる声を上げながら無様に荒い鼻息で呼吸した。
「これからはもう、この女に触れずに済む。吐き気に耐える日々は終わりだ。そしてやっと、リリーに触れることが出来る」
優しく、熱っぽく、リリーの手を取り立ち上がらせる。
まるでこの部屋には二人しかいないかのように、リリーだけを見つめていた。
「リリー、愛してる」
床に這いつくばるエレガルの前で、ノアは求めるようにリリーを抱き寄せて、ゆっくりと唇を重ねた。
そしてしばらくの間甘い静寂が流れ、それから名残惜しそうに体を離す。
「さて、この女だが……」
床に崩れ落ちたエレガルを冷徹に見下ろした。
その瞳には、先ほどまでの熱情など微塵も残っていない。ノアは手袋をはめて、まるで汚物を片付けるかのような手つきで、エレガルの腕を掴み上げた。
エレガルは怯えるように息を吸い込み体を震えさせる。
「とりあえず、旦那様が目を覚ますまで監禁だ」
◇
その日の夜、医務室にてベッドから布が擦れる音がしてノアとリリーは椅子を立った。
「旦那様!」
ナイジェルの瞼がゆっくりと押し上げられ、そこから現れたブラウンの瞳は、酷く虚な目をしていた。
「ノア、リリー……」
掠れた声で二人の名を呼び、けほ、と渇いた咳を出す。
ノアが背中に手を当てゆっくりと上体を起こし、リリーが水を差し出せば、「ありがとう」と弱々しく微笑んだ。
ナイジェルはぼんやりと窓の外、花のない薔薇の庭園を眺めた。
「夢を見たんだ……、ローズに会った」
ノアとリリーは、何も言わず、ただ真剣に耳を傾けた。
「彼女は僕を許すと言った。きっとこれは僕の願望だ」
「……旦那様」
リリーが歩み寄ろうとするが、ノアが静かに手を上げてそれを制した。
ナイジェルは泣いていなかった。
その瞳には、確かに絶望が浮かんでいた。それだけじゃない。寂しさや、後悔、怒り……言い表しようのないほどさまざまな色が混ざり合っていた。
それでも、決意のこもった声を出した。
「ノア、エレガルは?」
「部屋にて謹慎させております。……少々手荒な対応をしました」
ノアの報告を聞き、ナイジェルは小さく頷いた。
「僕の手で必ず殺してやるって、思った。そして僕も罪を償って死のうと思った」
ナイジェルは、自分の両手を見つめた。
大切なものを守れなかった手だ。しかし、愛しいローズに触れた手でもあった。
「……僕は、エレガルを正当な手段で裁くよ。
また間違えているのかもしれないし、甘えかもしれない。分からないけれど……でも、ローズは僕がエレガルを殺すことを望んでいないと思ったんだ。そして、ノアとリリーが殺すことも、望んでいない」
「でも、あの人は、」
思わずリリーが声に出す。
ナイジェルは、二人の顔をゆっくりと見た。
「そうだね。ローズとマルグリッド、二人の殺人だけど彼女は貴族で二人の身分は平民だった。きっと死罪にはならないだろう。数年の幽閉か、精神病院だ。
それでも……僕の決断を、どうか認めてもらえないだろうか」
リリーは自分を落ち着かせるように長く息を吐いた。
拳を強く握る。
正直エレガルのことは今すぐにでも、この隠し持った短剣を手に取って無様に殺してやりたい。汚い言葉を吐きつけてやりたい。絶望に歪める顔を見たい。
何度も何度も謝らせて、何度も何度も痛めつけたい。
ローズが味わったその何倍の苦しみを与えるつもりでここまで来たのだ。殺すつもりでここまで来た。
その気持ちは変わらない。
変わらないけれど——
ローズを深く愛していた、優しいナイジェルを見る。
疲れ切ったその顔には、信念が宿っていた。
リリーは自分の為といって復讐を続けたけれど、ナイジェルはローズの為を想ってこの決断をした。
大切な人が、幸せになってほしい。大切な人に、手を汚させたくない。それはきっと、誰しもが思うことで。
ああ、この方の真っ直ぐとした瞳は、お姉ちゃんの瞳に似ている。強くて、優しい。そして愛を信じ愛に満ちている瞳だ。
リリーも、ノアも、この瞳が大好きで、とても弱い。
リリーは、敬愛の念を込めてエプロンドレスの裾を持ち上げた。姉が身を捧げるほどに愛したナイジェルへ最上級の礼を。深く、深く膝を曲げてその身を沈めた。
ノアもまた呼応するように動いた。ゆっくりと白い手袋を外すと、それを左脇に抱え、片膝を床についた。そして右手を左胸に当て、頭を深く垂れた。
「旦那様の仰せのままに」




