47. お前を殺せるなら
嘔吐と過呼吸の表現があります。苦手な方は流し読みしてください。
二人が全てを話した時、ナイジェルは目を虚に笑った。
「酷い冗談だ……、そんなはずないよ、」
ナイジェルは理解を拒んでいた。
「僕が忘れていたから、だから、少し痛い目を見せてやろうって、そういうことだろう?
そうだよ、なあ? 僕がノアの意見を無視したから、ローズが辛い思いをしたから、それで怒って……」
ナイジェルはガタガタと震え出す。
「ローズが、辛い思いをしたから……、それで……」
リリーは堪えきれずに声を上げて泣いた。
その姿を見て、確信に近づき、ナイジェルは息を荒げていく。
肩が小刻みに跳ね、必死で呼吸を早めているのに全てが肺に降りる前に抜けていく。
焦点の合わない目を見開いて、は、は、と必死に空気を吸い続け、顔を青ざめさせていった。
「旦那様!」
リリーが駆け寄るよりも早く、ノアがナイジェルを抱え、落ち着かせるように背中をさする。
「ゆっくり息を吐いて!」
息を吸うたびに、喉の奥で詰まるような音がして、苦しそうに何度も首を振った。
「はっ、う、ぁ、」
迫り来る絶望は、決してナイジェルを休ませなかった。
ごぼ、と音がしたかと思えば喉を抑えて、そのまま体の反応に身を委ねるようにえずいて嘔吐した。
それから、先ほどまでより少し息を吸えるようになり、また荒い呼吸に戻る。それでも、何度も何度もうぅ、と声を上げて胃の中のものを吐き続けた。
止まらない嘔吐、浅くなっていく呼吸、血色がなくなる唇。このままでは危ないとリリーが声を上げる前に、ノアが立ち上がった。
「リリー! 旦那様を頼む! 俺は医者を呼ぶ!」
ノアが走り去って、リリーはナイジェルの背中をさすり続けた。
「旦那様、旦那様、」
リリーの声は、きっと届いていない。
ただ受け入れたくない現実と、襲いかかる感情の波に翻弄され、喉を潰すような声を混じらせて必死にもがいていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……旦那様を苦しませてしまって、ごめんなさい」
リリーは自分の袖で、ナイジェルの汚れた口元を拭いながら、謝り続けた。ナイジェルに、そして、ローズに。
「私が、私が思い出させたから、お姉ちゃん、ごめん、ごめんなさい」
思い出させなければ、この人はこんなに苦しむことはなかった。ナイジェルがどうなるかなんて、予想はついていた。
こうさせたのは、自分の判断だ。
ナイジェルは強く目を瞑る。
そしてようやく呼吸の間に、ほんのわずかな間が戻ってくる。
リリーは、吐瀉物が散らばる地面からナイジェルを離して、ベンチへ座らせた。
「ローズ、」
ナイジェルはそれだけしか、言わなかった。
しかし、何度も、何度もその名前を呼び続けた。
「旦那様! 屋敷へ戻りましょう」
ノアがナイジェルの元へ走り寄ってくる。
ナイジェルはその姿を縋るように見て、それからゆらりと気を失った。
◇
ノアは眠り続けるナイジェルの側を離れなかった。
屋敷内では、皆慌ただしく動き回っている。
泣き疲れてぼんやりと自室へ歩いているリリーだけが、ふわふわと浮いているような感覚になった。
扉の鍵を、開ける。
すると、逆に閉まってしまう。リリーは鍵をかけ忘れることなど決してない。違和感を覚え、そしてすぐに鍵をまた回して勢いよく扉を開けた。
「あら、おかえりなさい」
リリーはその声の主を見て、ぎゅっと歯を食いしばって睨みつけた。
「あなたってそんな顔をするのね」
感心したように言って、馬鹿にしたように笑う。
そこにいたのはエレガルだった。
そしてその手に持っていたのは、ローズの日記と、ルビーの宝石だった。鍵のかかる引き出しに大切に閉まっていたものだ。
「あの女、まだ宝石を隠し持ってたのね、好みじゃないけど、高価そう」
エレガルは宝石を光にかざしながら眺めた。
「エレガル……」
リリーが唸るような声で空気を揺らせば、エレガルはふっと鼻を鳴らす。
「主人に向かって、呼び捨てですって? はっ、使用人風情が、貴族に!
ねえ、ヴィオレッタ? まさかあなたが、あの売女の妹だったなんてねえ!」
エレガルは日記を乱暴に掴んでリリーに叩きつけた。
硬い装飾が顔に強くぶつかり、ガン、と重い音を立てて落ちる。
「ヴィオレッタ……いいえ、リリー。日記は読めなかったけれど……あなたのことは調べさせたのよ。いかにも平民らしい名前だこと」
リリーはヒリヒリと痛む額を抑えることもせず、何も言わずにエラガルを睨み続ける。
「随分と下らない小細工をしてくれたものね、立派な殺人未遂よ。私は今すぐあなたを死刑にできる」
カツン、カツン、と硬い足音が近付いた。
「でも、してあげない! あの女と同じ死に方をさせてあげるわ!」
エレガルは大きく振りかぶって、リリーを殴り飛ばした。
家具に体が打ち付けられ、ガチャン!と音を立てて揺れる。そして、ゴトン、カラン、と物が地面に転がり落ちる音だけが響いた。
「ふ、ふふ……」
リリーはくつくつと笑った。
エレガルはそれを見て、リリーの服の襟をぐっと掴んだ。
「なあに? 嫌だ、おかしくなってしまったの?」
「いいえ……ただ、ずっと思っていたことがあって——」
ヴィオレッタはエレガルの目を刺すように見る。
「お貴族様って、やっぱりか弱いんだ、って」
そう言ってリリーはぐっと拳を握り、エレガルの腹を目掛けて力強くめり込ませた。
エレガルから「ぐぅっ!」と、到底貴族の女性とは思えぬ汚らしい声が上がる。
そしてそのまま地面に大きな音を立てて倒れ、ひゅっ、と苦しそうな呼吸を吐きながら腹を抑えたエレガルを見て、ヴィオレッタは笑った。
「死刑でも何でもいい。お前を殺せるなら、それで」




