45. 取り戻した先には
『ナイジェル様が植えてくれた沢山の薔薇は、私にとって一番のプレゼント。ああ、いいえ、勿論今までのものも全部素敵で、全部一番よ!
でも、最初の頃より格好付けるのが得意になったみたい。私が欲しいものを全て当てるんだもの。昔の不器用なナイジェル様も愛おしいけれど……。
薔薇の前で歌を歌えば、ナイジェル様が泣いて喜んでくれる。そして、ノアがそれを見て笑う。全てが私の大好きなもので溢れてる。この瞬間がずっと続いて欲しい。そしてここに、いつか私たちの子供が加わって、それからリリーも呼んで二人で歌うのも良いわ……ああ、なんて素敵なのかしら。』
——……
「ヴィオレッタ、話があるって……何かあったのかい?」
ナイジェルは、心配を滲ませながら声をかけた。
冬の庭園に、薔薇は咲かない。
よく手入れされた蔓や枝が、眠るように春の訪れを待っていた。
吐く息は白く、風は冷たいけれど、柔らかに降り注ぐ太陽の光がほのかに辺りを照らせば、まるで生命を宿すかようにほんのりと温まる。
「使用人の立場で、旦那様のご予定を邪魔してしまい……申し訳ございません」
「気にしないで。話をするのに身分など関係ないよ。それよりも、体の具合はどう?」
相変わらず優しい方だ。姉はナイジェルのこういうところに惹かれたのだろう。
「……問題ございません」
感傷的な気持ちになり、悲しげに笑う。
でも、もう決めた事だ。復讐を完遂するには、ナイジェルの記憶を取り戻さなければならない。
きっと、優しい旦那様は、姉を想って泣くだろう。これまでの関わりの中でそう確信していた。
全てを思い出して、それなら真実を知った後、この人はどうなってしまうのだろう。
知らないままの方が、きっと、幸せだ。
なぜなら、ローズとナイジェルの愛に、救いはない。
「ごめんなさい……」
小さな声を空気に溶かす。
「ヴィオレッタ、何か言った?」
「……私の名は、ヴィオレッタではありません」
歩みを止めて振り返り、ナイジェルのブラウンの瞳をまっすぐ見つめる。
ナイジェルは困惑したように淡い栗色の髪を揺らした。
「本当の名は、リリーと申します」
「えっ、と……? ああ、そうなんだ。リリー? 良い名前だね……、」
辿々しく褒める様子は、意図を理解できず、探り探りに言葉を発しているように伺える。
「今まで偽っていた事、申し訳ございませんでした」
「顔を上げて、別に良いよ。ヴィオ……リリーの事だから、何か理由があったんじゃないかな」
ナイジェルは慌てたように顔を覗き込む。
顔を上げたリリーは小さく深呼吸をして、そして言った。
「そして、姉の名を、ローズと言います」
ナイジェルは、ほんの一瞬考えるような顔をして、それからすぐに目を見開いた。
「旦那様にここへ来てもらったのは、名を偽っていた件をお詫びする事と……私の歌を聞いていただきたくて」
「ああ、ええと、歌……? 勿論、君の歌はとても聞きたいんだけど……その、ローズって……」
リリーはナイジェルの問いに答えず、真っ直ぐな目を向けた。
「聴いてくださいますか?」
ナイジェルは言葉を失って、ごくりと唾を飲んだ後「ああ、もちろん……」と思考を投げ出した。
喉の奥から、震えるのがわかる。
冷たい空気を吸い込んだ。
お姉ちゃんはどんなふうに歌ったの?
声高らかに? 華やかに? 踊りは添えた?
いいえ、多分……、
リリーはナイジェルへゆっくりと近づき、その手を取った。ナイジェルの両手を自分の両手で包み込むように握り、そして目を閉じる。
最初は呟くように。
喉が少し震えようが、気にせずに歌う。
それから、語りかけるように愛の歌を紡いでいく。
喜劇『ヴィオレッタ』
恋焦がれる貴族の男性への愛を歌った曲だ。
ナイジェルとローズを引き合わせた、姉の初めての主役の舞台。ローズが大好きだった愛に満ちた物語。
どうか、思い出しますように。
リリーの美しい歌声は庭園を駆け巡った。
歌の盛り上がりと共に、自分の感情が揺さぶられる。一番の高音で、少しつっかえて、それから大粒の涙を流した。
姉の歌声には到底及ばない。泣くなどあり得ない。
それでも歌い続ければ、ナイジェルの手に力が入り、そして微かに震え始めた。
ローズはきっと、愛を込めて歌った。
リリーの涙が止まらなくなれば、ナイジェルもまた、酷く顔を歪めて涙を流していた。
そして——リリーが鼻声混じりに最後のフレーズを歌い終えた時、ナイジェルはそのまま地面に座り込んだ。
ヴィオレッタは、耐えるように口をぎゅっと噤む。
「……なければ、」
ナイジェルの小さな呟きが聞こえ、はっと息を吸った。胸を抑え、ごめんなさい、ともう一度、声にならない声を吐き出した。
「会いに……会いにいかなければ!」
ナイジェルがまるで怒鳴るかのように叫ぶ。
ヴィオレッタは、堪えられなかった。
涙が頬と髪を濡らし、う、うう、と声が漏れる。
歌が、届いた。ナイジェルの記憶を呼び起こした。
でもそれは、ナイジェルの絶望を意味する。
「僕は何故忘れていたんだ! ああ、ローズ!」
ナイジェルが言葉を発するたび、リリーの嗚咽が勢いを増して、荒く息を引き攣らせた。
呼吸ばかりに意識を使い、足に力が入らなくなった。ふらふらと重心が定まらず、ぐらりと体を傾かせる。
「リリー……っ」
全てを陰で見守っていたノアが駆け寄ってきて、抱きしめるように体を支えられ、そのままずるずると地面へ座り込む。薔薇の香りがリリーを包んだ。
「っ、ノア、ノア……だって、分かって、いたの、分かっていた! けれど……っ」
ノアも同じように顔を顰め、そして涙を流した。
ナイジェルがふらりと顔を上げる。そして眉を歪めながら言った。
「ノア! 良いところに! 全部思い出したんだ、全部だ! 君の言っていた通りだった、ああ、ごめん、ノア……」
次に言われるであろう言葉が分かり、ノアはぎり、と奥歯を噛み締めた。
「ローズを探してくれ! すぐに会いに行く!」




