38. 波乱の幕開け
酷い夕食を終えた後のエレガルは、それから眠るまで怒り続け、ヴィオレッタもそれに合わせて怒り続けた。
流石に体力を使い果たし、エレガルの部屋をふらりと出る。すると、偶然前を通りかかる人とぶつかりそうになった。
「まあ、旦那様! 申し訳ございません」
「ヴィオレッタ……少し、時間をくれないかな?」
ナイジェルも心なしか疲れているようで、弱々しくヴィオレッタを誘った。
断る理由もなく、促されるまま付いていく。
案内されたのは、タウンハウスのとある一室だった。
「流石に、外は寒すぎるからね」
ナイジェルはちらと窓の外を見る。微かに雪が降り始めていた。
「……エレガルの様子はどうだった?」
「おそらく、ご想像の通りかと……」
ヴィオレッタは、苦々しい顔で応えた。
「そうだよね。母上には……うんざりするよ」
日頃、怒ることを知らないような穏やかなナイジェルが珍しく苛立たしそうに項垂れている。
「ナイジェル様もそんな顔をなさるのですね」
「ああ……すまない。余裕のないところを見せてしまって恥ずかしいな」
ナイジェルは姿勢を直して、それから言った。
「君は随分頑張ってくれているけれど、エレガルに何かされるようなことがあれば、言って欲しい。……君を失いたくないからね」
ヴィオレッタが少しだけ目を見開くと、照れるように慌てて付け足した。
「あ、ええと、君はとても優秀だから」
「……お気遣い、ありがとうございます」
ヴィオレッタは驚きつつも、深々と頭を下げれば、ナイジェルは、優しく笑った。
「以前、侯爵邸で足を怪我しているから踊れないと言っていたけど、今はどう?」
「今は、問題ございません。すっかり治りました」
「良かった、君は侍女として僕と踊ることになるから」
年末の聖夜祭。貴族の屋敷で行われる、使用人を労わる為のパーティー。
ナイジェルは、このパーティーの最大のハイライト、主人が最初のダンスを最高位の使用人と踊る伝統の話をしていた。
つまり、ナイジェルは侍女のヴィオレッタと、エレガルは執事のノアと踊ることになる。
「つい数ヶ月前まで一介の新人メイドだったので、旦那様と踊ることになるなんて驚いています」
「異例の大出世だからね」
「しかし……伝統ということはわかっているのですが、私が旦那様と踊ることを、奥様はお気になさらないでしょうか」
ナイジェルとエレガルの関係を探ろうと思い、少し顔色を悪くしながら言うと、ナイジェルは物悲しい顔をした。
「むしろ、ノアと踊れることに喜ぶんじゃないかな」
まさか、と思い思わずナイジェルの顔を見上げる。
「全く気付いていないわけじゃないんだ」
「旦那様……」
ナイジェルが自嘲気味に笑う。その口ぶりから察するに、ナイジェルはノアとエレガルの関係を知っているということだろうか。ヴィオレッタは動揺し、何も言えなくなってしまった。
「少し、自分の話をして良いかな。君には、軽蔑されてしまうかもしれないけど」
「……はい、」
ナイジェルは、ぽつりぽつりと言葉を落としていく。
「ノアとエレガルの事、詳しく知っているわけじゃないんだ。何があっても咎める気になれないから、調べることも問うこともしていない。
……僕が悪いんだ。僕は、エレガルとの子供を望めないから。そして、諦めてしまったから」
少し間を置いて、それから意を結したように続けた。
「ローズ……”忘れられた愛人”の話を知ってる?」
ヴィオレッタはごくりと唾を飲んで、それから「少し」と答えた。
「僕はその期間の記憶が一切なくてね。驚いた。エレガルという婚約者がいながら、舞台女優の愛人がいたらしい」
ああ、歪められている。ヴィオレッタは思わず手に力を込めた。
「咎める気がしないのはエレガルを愛せないからだけじゃない。僕が浮気者だったからだ。話を聞いて酷く自己嫌悪した。そして今の感情もそれを裏付けている」
「今の感情……ですか?」
「うん。嬉しいんだ、僕は。エレガルに文句を言えないほどに。君と踊れる事を嬉しく思って、喜んでいる」
悩ましい顔をしてヴィオレッタを見るナイジェルに対して——ああ、この人は最初からそうだ。と思った。
ヴィオレッタは気付いていた。この人は、ヴィオレッタを見ているようで見ていないことに。
まるで恋が始まるかのような言葉を言うのに、ノアから向けられる熱のある視線とは違う。無意識に何かを探すような、ヴィオレッタを通して、別の人の面影を見ているような、そんな視線だった。
ここで、ノアと自分が知っている全ての真実を、エレガルの所業をこの人に告げれば、どうなるだろうか。もしかしたら思い出してくれるかもしれない。そうでなくても、ローズという女に同情し、エレガルやアデライドを追い出してくれるかもしれない。そうなれば、簡単に復讐できる。
「旦那様、私が知っている話とは違います」
強い口調で言えば、ナイジェルは驚いたようにヴィオレッタを見た。
「旦那様は、ミス・ローズを愛し、結婚の約束までしていたと、ミスター・ノアからお聞きしました。旦那様、彼の話を思い出してください。エレガル夫人はその後に——」
その時、ドン!と大きな音が響き、扉が開けられる。
話は遮られ、そこには鬼の形相をしたアデライドが立っていた。
「貴女……」
空気が震えるような低い声がヴィオレッタに向けられる。夜の密室に男女二人。そして男側は愛する息子、ナイジェル。アデライドが良くない想像をしたのがすぐに分かった。
「母上、これは!」
ナイジェルが庇うように立ち上がるも、アデライドに鋭く睨みつけられると動きが止まる。
「分かっているわ、ナイジェル」
恐ろしく優しい声だった。
「また、毒婦に誑かされたんでしょう?」
そして、ヴィオレッタの方を向き直り、大きな声で言い放った。
「解雇よ! 今すぐ出て行きなさい!」
「そ、それは認めない!」
ナイジェルが咄嗟に言い返す。
「何? 貴方、産んでやった母親の意見が聞けないの?」
「……それは、関係ありません。こ、この子は働き振りも申し分なく、今だって! 僕の方から話そうと誘った」
アデライドはみるみる顔を赤くして言った。
「ああ、ああ! 本当に! 私の息子はどうしてこうも簡単に騙されるのかしら! この女は下品な鳴き声で、貴方から目を掛けられるよう仕組んだに決まってるじゃない! 一度私が助けてあげたと言う話を忘れたの!? 前は伯爵邸が乗っ取られるところだったのよ!? 神が伯爵家を救うために貴方の記憶を消してくださったというのに! 漸く目を覚ましたかと思えば次はこの汚い下賎な女ですって!?」
アデライドの勢いは止まらなかった。
ナイジェルは、パクパクと口を動かすも言葉が出てきていなかった。
「ねえナイジェル、いつも私のいう通りにしていれば、問題などなかったでしょう? お父様が死んでから、貴方は一人で頑張ろうと張り切りすぎているのよ。さあ、私の話を聞いて?」
「それでも、か、解雇は……認めません、」
ナイジェルが絞り出すように言えば、アデライドはひどく不機嫌そうな顔をして、それから連れていた使用人達に言いつけた。
「いいわ! ナイジェルが真実に気付くまでこの女が屋敷を自由に出歩かないよう、閉じ込めなさい!!!」
言葉を失っていたままのヴィオレッタは、気付けば両腕を掴まれる。
「や、やめて下さい! 誤解です!」
抵抗も虚しく、引き摺られる。ナイジェルを見るも、彼はその場で弱々しく手を伸ばすだけだった。
そして、暗い部屋に押し込まれた。勢いよく扉が閉められ、それからガチャリと金属音が鳴って鍵が閉められた事を悟った。
物置のような部屋は、埃っぽく、とても冷え込んでいた。




