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35. 誰にも聴かせたくない

扉を閉めると、確かにラビーヌの注文通りとても広く大きな部屋が広がっていた。

綺麗に整えられた大きなベッドが二台。絨毯は分厚く、控えめなシャンデリアがキラキラと輝いていた。


「怖くないのか」


部屋につくなり、ノアは言った。


「何のことでしょうか」


リリーは少し雨に濡れたコートを脱いで、ハンガーに掛ける。そして、ノアの分も掛けてやろうと手を差し出した。

しかし、ノアはコートを脱がずその手を取って、リリーを引き寄せた。


「今なら引き返せる。もう一つ部屋をとった方がいい。……俺は君を一度、組み敷いているから」


リリーはラングレイ侯爵邸で起こったあのキスを思い出して、顔を赤くした。


「……大丈夫です」

「話の意味を理解しているのか?」

「理解した上で……大丈夫と言っているのです」


ノアはごくりと喉を動かして、リリーから少し距離を取った。

そして、ん゙ん、と咳払いをして、コートを脱いでハンガーに掛ける。

リリー自身も自分の発言に少し驚いていた。


「君の代わりようには本当に驚かされる。伯爵邸でのヴィオレッタとはまるで別人だ」


ノアは呆れたようにソファに腰掛けた。

 

「それは、残念に思っての発言ですか?」


リリーもノアを追いかけるように向かい側のソファに腰掛ける。


「まさか。調子が狂うだけだ。ミス・ローズが言っていたことは本当だった」

「お姉ちゃんは何と?」

「……気を許した人にだけ甘えるのが、可愛いと」

「まあ、」


リリーは恥ずかしくなって、顔を下げる。


「ミセス・ガーベラや、ミス・ラビーヌと話す君は、年相応の可憐な娘で……、あの時の態度や行動を後悔した」

「年相応の娘って……私、もう大人ですよ」

「しかし歳下だ。それなのに情けなくも翻弄された」

「変な言い方しないでください」


リリーは眉を寄せて、不機嫌さを伝えるように勢いよく背もたれにもたれかかった。

ノアの口ぶりから、子供扱いされているようで腹が立つ。


「子供のように思っているわけじゃない」

リリーの心の声を読んだように、ノアが言った。

「だからこそ、今悩んでいるわけだが」


リリーは、緩やかに首を傾げた。

その時、ふと視界の端に木の台座の上に置かれた金色の楽器のような物が写る。


「まあ! もしかして」

リリーは立ち上がってそれに駆け寄った。

「これって……蓄音機だわ」


高級品である蓄音機が置いてある部屋など余りにも高価に違いない。一瞬現実的な思考が頭をよぎって、すぐに消した。


じっくり観察していると、ふと、大きな影が重なって、背後にノアが立っていることがわかった。


「凄いな、初めて見た」

「針で音を鳴らすなんて、不思議……」


リリーは恐る恐る、黒い円盤をなぞる。

そして、台座の側面にある小さなハンドルに指を掛けた。

きり、きり、と控えめな音を立てながら、ゼンマイを巻いていく。指先に、確かな抵抗が伝わり、手を止めた。


「これでいいのかしら」


ヴィオレッタは息を整え、金属のアームを持ち上げる。すると、円盤が回り始め、ヴィオレッタは針を触った。

細く繊細で、今にも折れてしまいそうだった。


そっと、外縁へ針を下ろす。


——じ、じじ……。


一瞬の雑音の後、くぐもった音色が、部屋に流れ出した。

そして、緩やかに弦楽器の旋律が響き渡る。


「……すごい。私、この曲を知っています。一度歌ったことがあって」


しばらく二人は言葉を発さずに耳を澄ませていた。

やがて、ノアがぽつりと呟く。


「……リリー」

台座の木の質感を確かめるように撫でていたリリーの手に、そっとノアの手が触れた。

「歌ってほしい」


リリーは驚いたように振り向き、柔らかく笑って目を閉じた。

ラッパの向こうから流れる音楽に、そっと声を重ねる。


最初は音を探るように、慎重に。そして、次第にその声は機械の音すら凌駕して、部屋に響き渡った。


透き通った歌声と、息遣いに、ノアは動けなくなった。

今までに聞いたどの音楽よりも、美しかった。

確かな発声は、その歌詞を心の奥まで響かせる。

のびのびと歌う彼女もまた、ノアが知らぬ新しい姿だった。


最後の音が、ほどけるように消えて、リリーは少し恥ずかしそうに、しかし心地よさそうに目を開けた。


蓄音機の回転音だけが、響いていた。

ノアはハッとしたように、針を上げる。


「何か言ってください……」


リリーは頬を赤らめながら、小さな声で呟いた。


「聴かせたくない」


ノアから発された言葉は賛称でも感謝でも無い。自分を支配する感情そのものだった。


ノアは熱を浮かせた瞳でリリーを見ていた。


「……俺は、伯爵邸の誰よりも先に聴いただろうか」

「え、ええ……そうですが」


リリーは困ったように眉を下げる。


「ああ、聴かせたくない。俺だけのものにしたいと……そう思った」


ノアの指が、リリーの頬を包み、控えめに唇の縁をなぞった。リリーは抵抗しないまま、次の言葉を待つ。


「君の歌声を聴けば、誰もが恋に落ちるだろうな。君は今だって人の目を惹きつけると言うのに」

 

リリーは小さく口を開いた。

 

「ねえ、ノア。それは……貴方もですか?」


ノアは意表を突かれ呆気に取られた表情を浮かべた後、揶揄うように笑った。


「君は、それが分からないほど子供じゃないはずだ」


そうして、二人の唇が重なり合った。


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― 新着の感想 ―
ふたりの距離が近づいて…素敵です!このまま復讐を忘れて幸せになってくれたら…と思いますが、そう簡単にはいかないですよね。。最近は更新があるたび、ドキドキしながら読んでいます。
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