34. 穏やかな時間
ガーベラから譲ってもらった演奏会は、街の小さな劇場で開かれた、ささやかなものだった。
観客は皆、身なりの整った上品な人々——おそらく貴族ではないが、音楽を理解し、静かに耳を傾けることのできる人たちであることがわかった。
有名な楽団だと聞いてはいたが、その評判に違わぬ演奏だった。音が流れ始めると、余計な思考が、ひとつずつほどけていく。
ふと、リリーは隣に座るノアへ視線を向けた。
ノアは真剣に舞台を見つめていた。
今日のノアの瞳は、いつものような鋭さを帯びていない。そこにあるのは、優しさだった。
本当のノアは、きっとこっちだ、と思った。
私たちは復讐に囚われすぎている。
それ以外の生き方を、忘れてしまうほどに。
今日だけは、二人、ただ寄り添い合う時間を過ごしたい。
穏やかな時の流れと美しい音楽。この時が、永遠であればいいと、心から思った。
思わずそっと身を寄せ、ノアの肩に頭を預ける。
ノアは一瞬、驚いたようにリリーを見たが、すぐに柔らかな表情を見せた。
「あら、リリー?」
演奏会が終わって、会場を出る頃、背後から女性の声が掛かる。
振り返れば、ふわふわと桃色の髪を揺らす背の高い美しい女性、ラビーヌが立っていた。
「ラビーヌ姉さん! どうしてここに?」
リリーは思わぬ出会いに嬉しくなって、ラビーヌに駆け寄った。ラビーヌは、そのままリリーをぎゅっと抱きしめる。
「招待されたのよ、リリーは?」
「ミセス・ガーベラから、チケットを譲ってもらったの」
「と言うことは、手紙を読みに行ったのね……ああ、貴方!」
ラビーヌはリリーの背後に立つノアを見て嬉しそうに声をあげた。
「あの時の執事じゃない! やっぱり良い男ねえ、会えたみたいで良かった。デート?」
ガーベラと全く同じような反応だが、恥ずかしげもなく思ったことを言うラビーヌに、リリーは慌てて手を振った。
「デートなんかじゃないのよ! お姉ちゃんのお墓に行ったの」
「お久しぶりです。ミス・ラビーヌ」
ラビーヌはにやにやと笑いながら二人を交互に見る。
そして、ノアとリリーはラビーヌの下世話な質問をゆらゆらとかわしながら会場を出ようと扉へ向かった。
その時、突然目の前が白く光り、ドン! と、まるで世の中がそのまま割れるような大きな音が響いた。
間も無くして、ザァザァと地面を叩く雨音が聞こえ始めた。
「大きな雷ね〜!」
ラビーヌは大きな目をパチパチ瞬かせて、感心したように言う。
「雨が降るなんて知りませんでした」
「俺もだ」
ノアは控えめに外へ身を乗り出し、様子を見渡した。
そして、少し目を見開いたかと思えば、みるみる顔を強張らせる。
「どうしたの?」
ラビーヌが一緒に外の様子を確認すれば、「まあ! 大変!」と大きな声をあげた。
「雷が近くに落ちたみたいで、事故が起きてるわ」
「そんな!」
ラビーヌに招かれるままリリーも外を覗けば、確かに黒い煙をあげる地面と、馬車が二、三台無造作に止まっていた。丁度伯爵邸への方向だった。
「どのみち、この大雨と雷の中で馬車を走らせるのは危険よ。少し待ったほうがいいわねえ、」
その言葉に、不安げな顔を作るリリーを見て、ラビーヌが明るい声を出した。
「私、隣のホテルを取るわ! 一度そこで時間を潰しましょう? 夕食をとってから帰ればいいわ!」
ラビーヌはそう言って、リリーの手を取り、そして有無を言わさずに引っ張って、外へ出る。
少しだけ濡れたが、隣ということもあってあっという間にエントランスに着き、立っていたスタッフの男に言った。
「部屋を二つ用意して頂戴! 夜にフロラン侯爵を呼ぶから大きな部屋を!」
「ミス・ラビーヌ、そこまでしなくても、」
追いついたノアが、少し息を切らしながら慌てて止めようとするも手遅れだった。
ラビーヌはリリーに部屋の鍵を押し付ける。
「リリー、彼と一緒の部屋が嫌ならもう一つ部屋を借りなさいね。お金は私が出すから」
そう言い残して、スタッフに案内されながら陽気に消えていった。しばらくして遠くから声が響く。
「あ! 18時にレストランに集合ね〜!」
顔を引き攣らせるノアを見て、リリーは言った。
「ラビーヌ姉さんは強引な人だけれど……きっと、私が暗い顔をしたから気を遣ってくれたのです。気を悪くしないでください」
「いや、気を悪くするなんてまさか。正直助かった」
リリーはその言葉にほっと息をついた。
「部屋へ行きますか?」
「もう一つ借りよう。ミス・ラビーヌはああ言っていたが、俺が払うから気にするな」
「ええと、」
リリーは、正直に思ったことを言った。
「どちらが払ってくれたとしても、気にします。それに私、嫌じゃありませんから……」
別に、一晩を過ごすわけではない。
夕食までの間、せいぜい三時間ほど時間を潰すだけだ。
劇場に近い都会のホテルともあって、内装がとても豪華で高価な場所だとすぐに分かる。
わざわざ数時間のために高いお金を払ってもらう気にはならなかった。
そんな損得の話だけじゃ、無いような気もしたけれど。
「勿論、嫌じゃなければ……」
控えめに付け足せば、ノアは何も言わずにリリーの手を引いた。
お約束ですよね




