33. 暖かい食事
王立オペラ座は街の中心にある。
ガス灯が並ぶ大通りに聳え立つ、一際目立つ石造りの建物だ。
門の前は広場のようになっていて、噴水を囲むように冬の花が植えられた花壇とベンチが規則正しく並べられている。綺麗な広場だが、寒さゆえか人はまばらだった。
「ここが稽古場でした。懐かしい」
豪華な建物の裏手には、簡素な稽古場があった。
ゆっくりと近づけば、かすかにピアノの音が耳に届く。
今も誰かが夢を追っているのだ。リリーは懐かしむように目を閉じて耳を傾けた。
「リリーは……戻りたいと思うのか?」
遠慮がちに尋ねるノアの言葉に、リリーは考え込む。
「……どうでしょうか」
「ミス・ローズから、君の歌がとても綺麗だと聞いた。そして確かにあの時俺の耳元で聴かせてくれた歌は、美しかった」
リリーは、眉を下げて少し揶揄うように言った。
「確かに歌は今でも大好きです。でもあの時の歌は……あまり出来の良いものではありません。貴方が正気を失っていて、とにかく必死でしたから」
「それでも、心に響いたから、俺は助けられた」
「そう、ですか……」
復讐に必死になって、歌のことや目指していた夢を考えた事はなかった。
今、よく考えてみれば、戻りたいとも思う。ただひたすら憧れを追い続けていたあの日々は尊いものだった。
けれど選んだ道を後悔していない。場所も状況も違うが、歌で誰かの気持ちを少しでも動かせたなら、それで良い。それが一番、リリーにとって大切にしていた事だったから。
そこから奥の方へ二十分ほど歩いた。
周りの風景はどんどん古くさびれていく。その中に大きな建物が見えた。それが、王立オペラ座の寮だった。
リリーも伯爵邸に来るまでここで暮らしていた。
呼び鈴を鳴らして、ここで暮らす建物の管理人を呼ぶ。
「ああ! まさか、リリー!?」
小太りの初老の女性が扉を開けて、リリーを見るや否やぎゅっと抱きしめた。ふわふわとしていてとても温かい。
「ミセス・ガーベラ!」
「元気にしていた? 少し痩せたんじゃないの? 今何をしているの? 貴女に荷物が……ああ、!」
勢いよく話すガーベラが、後ろに立つノアの姿を見つけて目を丸くした。
「お久しぶりです。ノアと申します」
「まあ……そう、出会えたんだね」
ガーベラはふわりと笑って、「寒いから、とにかく中へ」といい、二人を押し込むように自分の部屋へと招き入れた。
「とても心配していたよ、私も、もちろん他のみんなもね」
ガーベラは忙しなく紅茶や菓子を用意しながら、リリーに話しかける。
その様子にリリーは懐かしく思った。リリーにとって面倒見の良いガーベラは母のような存在だった。
「ごめんなさい……そしてありがとう。皆には元気にしていたと伝えて」
「そう。じゃあやっとみんな安心できる」
ガーベラはニコニコと笑って、そして続けた。
「もしかして、昼食はまだ?」
「ええ、この後どこかで食べようと思って」
ガーベラは、あらら! と声をあげて、せっかく出したお菓子を下げる。
「こんなんじゃお腹は満たされないね、すぐに食事を用意するから、食べていきなさいな!」
ガーベラが勢いよく立ち上がって、エプロンを巻き始めれば「そんな、悪いです」と咄嗟にノアが声を出した。
「気にしないで頂戴! 嫌ならば辞めておくけど遠慮しているならそれは不要!」
ノアは呆気に取られ、リリーは耳打ちした。
「とっても美味しいから、食べたほうが得です」
「では……頂きます」
ノアは顔を固くしながらそう言った。
ガーベラがバタバタと食事を作る最中、リリーはローズから宛てられた手紙を読んだ。
墓に行ったばかりだと言うのに、その手紙を読んでいる最中は、まるで今実際に生きているローズに語りかけられているような気がした。
内容のほとんどが、リリーを心配する言葉だった。
この手紙を書いている時、ローズは酷い状況に置かれていて、人を心配する余裕など無かったはずなのに。
後に書かれた手紙になるにつれ、文字と言葉が徐々に崩れていく。リリーが思わず涙を流せば、ノアが励ますように背中を撫でた。
やっぱり、一緒に読んでよかった、と思った。
「ノアのことも、沢山書かれています。ほら」
ローズが話すことといえば、ナイジェルのことと、ノアの事だった。
リリーはノアのことが書かれている部分を見せた。
しかし、「二人はお似合いだ」と書かれている部分だけは、妙に恥ずかしくなって見せないことにした。
あらかたの手紙を読み終えた頃、香ばしい良い香りが鼻を掠める。
「さあ! できたよ!」
机の上に様々な大皿が並べられていく。
ゴロゴロと具が入ったシチューに沢山のパン、マッシュポテトに、ロースト肉まで。
「ミセス・ガーベラ……流石に豪華すぎるわ……!」
リリーが申し訳なさそうに、しかし目を輝かせていえば、ガーベラはふん! と胸を張った。
「デザートに、りんごのパイもあるよ!」
そう言って、オーブンで焼かれている最中のパイを指差した。
ノアは驚きのあまり目を大きく見開いていた。
そしてガーベラに勧められるまま、大きなスプーンで、料理を取る。
あまり表情を表に出さないし、口数が多い方ではない。それでも、ガーベラの止まらない話を聞きながらテーブルを囲んで食事をとるノアは、心なしかとても楽しそうだった。
「もう食べられない……」
食後のりんごパイを何切れか食べた後も、ガーベラは紅茶や菓子をテーブルに広げた。
「この後のこと、決まってるの?」
沢山のクッキーをノアの皿へ移しながら、ガーベラが問う。
「何も決めてないわ、お墓参りと、手紙がメインだったから」
「じゃあ、良いものがあるよ。はい!」
ガーベラから差し出された物は、何かのチケットのような紙切れだった。
「演奏会のチケット。丁度、有名な楽団が来ていてね。格式高い物じゃないけど、偶然チケットを貰ったから良かったら行ってきて!」
リリーは興味を引かれ、それを受け取った。
「行ってみるか?」
「ええ、ノアが良ければ」
「会場の道路を挟んだ向かい側に、青い壁のケーキ屋さんがあって、おすすめだよ!」
「今はもう、食べ物の話は聞きたくないわ……」
それから、暫くガーベラの家で時間を過ごし、出る頃にまた抱き合って、お礼を言って演奏会へ向かった。
「良い時間だった。……初めて、食事の時間が楽しいと思えた」
そう言ってノアが笑顔を見せるので、リリーも笑った。




