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31. 憔悴

図書室でナイジェルと二人きり。そんな絶好の機会を逃さなかったのは、意外にもナイジェルの方だった。


「ヴィオレッタ、話があるんだ」


淡い栗色のふわふわとした髪を触りながら、人の良さそうな顔をしたナイジェルが遠慮がちに言った。


「何でしょうか」


ヴィオレッタが首を傾げると、ナイジェルは気まずそうな顔をする。


「ラングレイ侯爵邸で歌を練習してくれていたのに、あんなことになってしまって、申し訳なかったと思ってるんだ」

「そんな、旦那様がそう感じる必要はございません……」

「君は侍女になったから分かると思うんだけど……恥ずかしい話、エレガルとどうしても上手く関われなくて。止められなかった」


確かに言う通りだった。二人の仲は、良いとは言えない。むしろ悪い……と言うかお互いに無関心が正しかった。

プライベートで話しているところをほとんど見たことがない。エレガルが何かを頼む時や、ナイジェルが控えめに注意する時くらいだ。

勿論、夜の生活もなかった。それがエレガルの欲求不満を高めているのだろうが。


「歌の件、一度頓挫してしまったけれど、もう一度頼めないかな。聖夜祭が近いだろう?毎年伯爵邸でも、カントリーハウスでパーティーを開くんだ。使用人全員参加のパーティーだよ」

「まあ、素敵です」

「その日は無礼講だ。皆好きなように着飾って、好きなように踊り、食事をとる。その日……ヴィオレッタに歌を歌って欲しい」


大抵の貴族は、年末にカントリーハウスにて、使用人を労う為のパーティーを開く。

その日だけは制服を脱ぎ捨て、客人として振る舞うことが許される、使用人にとって特別な夜だという。


ヴィオレッタは、「勿論です」とすぐに答えた。ナイジェルに歌を聞かせることは、ローズのことを思い出すきっかけになるかもしれないと強く思った。


「ありがとう。今度こそ、楽しみにしてる」


ナイジェルはにこにこと笑った。本当に貴族らしくない、毒気のない優しい笑顔だ。

ふと、ナイジェルの手に持った本が目に入った。


「あ……その本、」


思わず声を上げると、ナイジェルは「これ?」と本を差し出した。


「ヴィオレッタも知っているのかい?」

「ええと、劇の題材になることが多い、有名な物語ですから」

「良い話だよね。好きなんだ。人に教えてもらってね……えっと、誰に、教えてもらったんだっけ」

 

ナイジェルは嬉しそうに声を弾ませたが、一転し表情が抜け落ちる。


この本は、女騎士とお姫様の物語だ。

ヴィオレッタの……リリーのお気に入り。姉と立ちたかった舞台の、原作の本だった。


ナイジェルは、苦々しく笑って、頭を抑える。


「実は……僕、昔怪我をして、その時に少し記憶が抜け落ちたらしくてさ。たまにこんな事があるんだ。きっと忘れている間に、誰かから教えてもらったんだろうな」


ヴィオレッタの目頭が痛んだ。

涙が溢れそうだった。


「そんな事があったのですね……、いつかその大切なひと時を思い出せると良いのですが」


そして、図書室を出るナイジェルを見送った。

ヴィオレッタは祈るように、譲ってもらった女騎士とお姫様の本を抱きしめる。


ノアの話からも推測できるように、ナイジェルの優しさはきっと本物だ。この伯爵邸で働いている中でも皆から慕われているし、人を心配し労る姿に嘘はない。


——旦那様が全てを思い出した時、お姉ちゃんを想って涙を流してくれますように。

 

 ◇


「キャァァ!!!」


皆が眠い目を擦る、朝の伯爵邸。その日、伯爵夫人の部屋から、若い女の悲鳴が響いた。

外は息をするのも億劫になる程に、冷え切った冬の空気が世界を包んでいた。


悲鳴の正体は、ヴィオレッタだった。

侍女として主人であるエレガルを起こしに行き、暖炉の火を調節して、カーテンを開けた瞬間のことだった。


その悲鳴に驚いたエレガルは、ヴィオレッタの方を見て、そして腰を抜かしたように地面に崩れ落ちる。


ヴィオレッタとエレガルの目線の先は窓だった。

外との温度差で結露が発生し、白く曇ったガラス窓に不自然に文字が浮かび上がっていた。


『許さない』


たった一言だけ。言葉の内容に反して、それは丁寧な文字だった。


「な、何よこれ! 誰!? 誰の仕業よ!!!」

「直ちに奥様を別の部屋へ!」


ヴィオレッタは急いでエレガルを別室に移動させて、すぐに掃除させた。

 

それは内側から書かれたものだった——まあ、ヴィオレッタが書いたのだが。

前日の夕方頃。エレガルが部屋を開けている間に、リップクリームでその文字を書いておいた。

油分を含んだリップクリームの透明な文字は、朝の結露とともに姿を現したのだった。

 

エレガルの精神は、本当に少しずつ削られていった。

いつもと同じ傲慢な姿に見えるが、エレガルによく支える者だけは、その違いを感じ取っていた。

癇癪を起こし、周囲に当たる。不安そうに落ち着かない様子で動き回ったり、身嗜みよりも、身の安全を気にする事が増えた。


「これ、いつもと味が違うわ! 何か入れられているはずよ!」


数回に一度、食事の際に、エレガルは癇癪を起こしたようにスープをひっくり返すようになった。

ヴィオレッタはエレガルを落ち着かせるように背中をさすって、食事を片付けさせる。

今になって、グスタフに毒を盛られた件を思い出していたようだった。


「奥様、お化粧を直しましょう」


以前はしつこいほどにドレスを変えて化粧を直していたエレガルの余裕が無くなっていった。

ヴィオレッタはエレガルの頬に白粉(おしろい)を叩く。


「そう言えば……、白粉に水銀が混ぜられたものが売られて問題になったそうです。でも、安心してください。これはしっかりと中身を検査して購入したものですから」


普段と変わらない話題提供のように言えば、その日から、エレガルは白粉をあまり塗らないようにと指示を出した。


「窓の件ですが……使用人の筆跡を調べましたが、該当する者が見当たりませんでした。犯人が誤魔化している可能性もありますが、まだ……」

「どうしたら良いのよ……今に誰かが私の命を狙っているかもしれないのよ!? ねえ! 分かってるの!?」

 

髪を乱しながらエレガルは発狂した。

ヴィオレッタは、エレガルをなんとか宥めて髪を整え直す。


「奥様、予定を前倒して、カントリーハウスへ行きましょう。もうすぐパーティーがありますし、きっと心が落ち着くはずです」


明日から、ノアとのほのぼの?デートが続きます

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