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2. 執事見習い ノア

『ノアという執事見習いの男の子。

最初はとても冷たいと思っていたけれど、徐々に心を開いてくれたみたい。本当は優しい子だというのがわかる。

リリーに紹介したい。二人は気が合うはずだもの。』


——……


「これから、奥様であるエレガル・ベレナール伯爵夫人の元へ挨拶に行く。着いてこい」


抑揚のない低い声がヴィオレッタにかけられる。黒い髪で背は高く、綺麗な顔は凍りついたように冷たい無表情だ。

ヴィオレッタは「かしこまりました」と挨拶をして、その男の後へ続いた。


高い天井からは大きなシャンデリアが飾られていて、眩いほどの光を放っているはずなのに、屋敷内は何故か暗い。

ニ人の足音は、分厚い絨毯に吸い込まれていった。

飾られた絵画や芸術品などから、伯爵家はとても裕福であることがわかる。


「ああ、俺の名はノア。旦那様に同行している執事の父に代わって、見習いの身だが一時的にこの屋敷を取り仕切っている」

「ミスター・ノア。よろしくお願いいたします」


ヴィオレッタは、ノアの様子を観察する。

ローズの日記には、迫害に関わった者の名が複数人書かれていた。


そして、ノアという名も姉の日記に高頻度で登場する名だった。

——ただしノアは他の者達と違った。唯一迫害に加担せず、救いの存在であるかのように書かれていた。

 

この男は何を知っているのだろうか。

姉とどんな話をしたのか。

姉のことをどう思っていたのか。

そもそも姉を、覚えているのか。


ローズから見たこの男は好印象でも、ヴィオレッタにとって敵か味方か分からない。警戒対象に変わりはない。

 

これからエレガルの元へ挨拶に向かう。

自分の心が黒く陰るのが分かり、気を持ち直した。


ローズの日記では、結婚を約束し子供を身籠った後、ナイジェルの不在中に、貴族の娘であったエレガルが突然やってきて正妻の地位を主張したという。

ローズを虐げ、死へ追い込んだ張本人だ。


長い廊下を歩いた先、一際目立つ部屋の扉を叩いた。


「奥様。新しい使用人を連れて参りました」

「ええ、入って」


エレガルの声らしき、高圧的な声がかかる。

ヴィオレッタはノアに続いて部屋へと入り、手先まで神経を行き渡らせて優雅な礼をとった。

 

「ヴィオレッタでございます」

 

甘ったるい部屋の香りはなんとも趣味が悪い。

豪華な装飾がギラギラと輝くその部屋はエレガルの傲慢さと主張の強さを物語っていた。

 

「そう、顔を見せなさい」

 

言われた通り顔を上げて、その忌々しい顔を目に焼き付ける。

美しい顔、輝く銀髪と瞳、豊かな肉体。

ああ、早く穢したい。その自信に満ち溢れた表情が絶望に滲むところを見たい。

 

その為には、まずは近付かなければならない。一介の新人メイドという立場ではそう簡単に関わる事はできない。まずは目に掛けてもらう必要があった。


「奥様……噂に聞いていた通り、とても美しいのですね。私、奥様に仕えたくて針子を辞めました」


目を輝かせてスラスラと嘘をつくヴィオレッタを値踏みをするように見ていたエレガルは目を細めた。


「この屋敷で一番大切なのは、従順さよ」


そう言ってゆっくりと体を起こし、手袋を床に落とす。


試すような視線だった。

ヴィオレッタは迷いなく膝をつき、静かに手袋を拾い上げる。そして汚れをさすって差し出すと、エレガルはふんと鼻を鳴らした。


「もういいわ」


それだけ言って、二人を部屋から出した。


ヴィオレッタは部屋の外へ出た瞬間、大袈裟に感動を表した。


「とてもお美しい奥様……出来るだけ近くでお仕えしたいです」

「そうか。なら精々励むことだ」

「はい……!」


きっとエレガルにも聞こえている。

誰がどう見ても、心からエレガル・ベレナール伯爵夫人に憧れていると見えることだろう。

演技は得意だ。ヴィオレッタは姉のような舞台女優を目指していたのだから。


 

エレガルを落とす為には、まず周りから攻め込む。

ヴィオレッタはとにかく働いた。人が嫌がる事も進んで引き受けた。憎しみの力は、気力と体力を支えた。


皆が寝静まった夜、睡眠時間を削りエプロンの刺繍を縫い上げる。これは、自分のエプロンではない。他のメイド達のエプロンだ。


まず、ヴィオレッタは元針子であることを強く主張し、メイド達の興味をさらった。

自らのエプロンに、控えめだが丁寧な刺繍を施せば、皆目を輝かせた。


「貴女、刺繍がとても上手なのね」

一言、それを言われれば、「良ければ、縫わせて頂けませんか? 私も練習になりますし」と提案する。


そしてイニシャルと可愛らしい模様を縫い込んで渡せば、たちまちメイド達の話題の的になった。

 

針子の仕事などまともにしたことは無い。ここで働くツテを手に入れる為だけの一時的な職業だった。しかし、舞台女優を目指すにあたって何度も衣装を仕立て、姉の衣装にレースを縫い込み刺繍を入れた。身についた腕前は今、確実に役に立っていた。


一ヶ月も立つ頃には、ヴィオレッタは皆から評価されていた。


「あの子……そうそう、ヴィオレッタ。良い子よ。このほつれた服も縫い直してくれたのよ」

「腰を痛めた時、水汲み全てを担ってくれたの。ヴィオレッタが来てから仕事が楽になったわ」

「話が面白いのよね、元々針子をやっていたみたいだから噂話を沢山知ってる」

「私も刺繍をお願いした! 腕が早くて、綺麗よね」


昼下がりの廊下。メイド達のそんな話し声をひっそりと聞いていたヴィオレッタはほくそ笑んだ。

女が女に好かれる為の行動は熟知していた。ずっと女の世界で生きてきたのだから。

精力的に働き、よく話を聞き、流行を追い、少し愚痴をこぼしながらセンセーショナルな話題を出せば、皆すぐに食いついた。


そのまま噂話に耳を傾けていると、突然背後から男の声がかかった。


「ヴィオレッタ」


突然のことに少し体を震わせたが、すぐに口角を上げる。

男は女より簡単だ。

元の美しい容姿に加えて、さらに美しく見せる表情や仕草も熟知していた。


女にやっかまれないように調整しながらではあるが、つまらない話を楽しそうに笑って聞き、時に体に触れて恥ずかしそうに目を伏せれば、恋とまではいかなくとも絆されるのは早かった。

 

ヴィオレッタは声のした方へふわりと振り向き、大きな瞳をパチパチと潤わせた。こうすれば、皆顔を赤くして口角をだらしなく緩めるのだ。


……ああ、この男以外は。


ヴィオレッタの名を呼んだのは、執事見習いの男、ノアだった。その堂々とした態度に思わず背筋が伸びる。


「随分頑張っているようだな」


相変わらずの無表情で、何を考えているかわからない。

ヴィオレッタはとにかく微笑んで高い声を出した。


「褒めていただけて嬉しいです。ありがとうございます」

「評判も耳に届いている」


その言葉とは裏腹に、訝しげな視線でヴィオレッタをなぞっていた。

 

「奥様に少しでも喜んでいただきたくて」


「その事だが……」

ノアはエプロンの刺繍に目線を向けて、言葉を続けた。「奥様がお呼びだ」

 

ヴィオレッタは綺麗に口角を上げた。


「かしこまりました」


ここで働き始めてわかったこと。

ノアは代々この家に執事として使える家系の一人息子だということ。

その為使用人の中では身分が高く、高い能力と洗練された姿で、皆から一目置かれる存在であること。


そして、エレガルの一番のお気に入りであること。

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