25. 孤独から抜け出す二人
マルグリットは自殺未遂ということで片付けられることとなった。ヴィオレッタが!と何度も訴えかけていたようだが、その狂乱具合に、気が狂っていると皆が認識した。
マルグリットのその後の事を書くとすれば——伯爵邸には、それから数日間、鞭の音と人の叫び声が響いていたらしい。
皆エレガルに恐れをなしていた事、起きた事件の重大さ、そして日頃皆を見下していた故の人望の無さから、誰もその仕打ちに意を唱える事はなかったようだ。
それはナイジェルが帰宅する前日まで続き、それから忽然と姿を消したらしい。
どうなったかは誰も知らない。ただ、窓から身を投げてそのまま埋められた、という噂だけが囁かれていた。
そんな結末を迎える前——マルグリットが水に沈んだ次の日に話は遡る。
ヴィオレッタは、使用人の中で一番広い部屋の扉を叩いていた。
「失礼します」
ドアノブを回し、扉を開ける。
背の高い黒髪の男が、静かに窓の前に立って、庭園を見下ろしていた。
「昨日は眠れましたか? ミスター・ノア」
ヴィオレッタの問いかけに、ノアは髪を揺らして振り返る。伏せられた目が、ゆっくりとヴィオレッタの姿を捉えた。
そして、少しやつれた顔で自嘲気味に笑った。
「眠れなかった」
それだけ言って、額の温度を手で確かめるように当てながらベッドに腰掛ける。
「怒りと、興奮。そして過去と……お前の事で、思考が埋め尽くされていた」
ノアは、ヴィオレッタの姿を真っ直ぐに捉える。
「お前の……いや、君の名前を教えてくれ」
ヴィオレッタは静かに頷いて、足を一歩引き、スカートの両端をつまんで持ち上げた。
背筋を伸ばしたまま、すっと膝を折る。
「私は、リリーと申します。
かつては舞台女優を目指していて、今は復讐の為にこの伯爵邸で働いております。
そして、姉の名を——ローズといいます」
ノアはヴィオレッタの……リリーの美しい礼と、凛とした声に息を呑んだ。
それから、眉を下げて小さく微笑み、優しい声色で言った。
「ずっと、君に会いたかった」
その声に顔を上げたリリーは、同じように眉を下げた。
何かを堪えるように苦しげに笑って、それからぎゅっと目を瞑る。
遠くでベッドが軋み、それから足音が近づくのが分かった。そして仄かな薔薇の香りが鼻を掠めて、暖かな体温に包まれる。優しく、それでも確かな力で抱きしめられ、ヴィオレッタもそっと腕を回した。
堪えていた涙が頬を伝う。きっと彼も同じだった。小さく鼻を啜る音が聞こえ、リリーが肩を震わせれば、ノアの大きな手が緩やかに背を撫でた。
それからしばらく、部屋には二人の啜り泣く音だけが響いていた。
「ミス・ローズは、ずっと君の話をしていた。自慢の妹で美しく、歌の才能があると」
リリーとノアは、二人隣同士、上半身を向かい合わせて椅子に腰掛けていた。お互いの存在が側にある事を確かめるようにその手は握られていた。
それは、今までの孤独を埋めるようでもあった。
「それと……少し頑固で、意地っ張りだと……」
「まあ、そんな事を?」
口を尖らせて不貞腐れると、ノアは思わず笑った。
「よく、一人で頑張ったな」
リリーは瞳を潤わせた。
「もう、泣かせないでください」
「泣くのは悪い事じゃない。次からは二人で涙を流せる」
ノアの指がリリーの目元をなぞった。リリーは鼻を啜って、それから微笑みかける。
「姉が残した日記に、貴方のことが沢山書かれていました。優しい方だって……きっと、助けられていたんだと思います」
その言葉を聞いたノアはピクリと体を震わせて、それから素早く顔を伏せた。
「……泣かせないでくれ」
「二人で泣くんじゃありませんでしたか?」
二人は、泣いて、話して、笑って、また泣いてを繰り返した。ローズが信頼を寄せた執事と、ローズが愛した妹。一年と少しの間、ずっと一人で抱えていた苦しみと悲しみを、今この瞬間に分かち合うことができた。
「教えてください。姉のこと、伯爵邸のこと、貴方のこと」
——……
ノアは伯爵邸に代々勤めている執事一家のもとに一人息子として生まれた。
生まれた頃から執事として生きることは決まっていたが、嫌ではなかった。
執事の父親から計算、語学、貴族との関わり方から目利きまでの高等教育を受けて育った。
ノアは賢い男だった。教えられた事をすぐに覚え、仕事をそつなくこなした。情愛や娯楽にも一切興味を示さず、ただ淡々と。
そして、十五の時、先代伯爵にその仕事ぶりを買われ、次期伯爵家当主ナイジェル付きの見習いとして、出世を果たした。
「君の仕事ぶりは見ていたし、よく聞いているよ。これから長い間、共に伯爵家で過ごすことになる、いわば家族みたいなものだ。よろしくね」
当時二十二歳のナイジェルは、人の良さそうな笑顔でノアに手を差し伸べ握手を求めた。
ナイジェルは良くも悪くも貴族らしく無かった。
穏やかで温厚。派手な遊びもしないし、真面目。
権力をひけらかさず、誰に対しても……もちろん使用人であるノアに対しても低姿勢だった。
そして、悩める者がいれば、平等に救いの手を差し伸べる。
そんな姿勢は期待の次期領主として、領地でも屋敷でも、皆から慕われていた。
深く関わるのは初めてだったが、幼い頃から屋敷で見ていた通りで、好感を持った。決められた将来。しかしこの人に仕えるなら、悪くない。
そして、ナイジェルが二十五歳、ノアが十八歳になった頃。ナイジェルの様子がおかしいと気付く。
急に顔を赤くしたり、出掛ける機会が増えていた。
遂に恋が訪れた、とノアは思った。今まで主人の色恋沙汰を一度も聞いたことはなかった。
「あ、あのさ。もし、女性にプレゼントを贈るなら、何が良いかな?」
「宝石とか……喜ぶのではないですか?」
ノア自身は恋愛などした事が無いが、知識とそれなりの経験だけはあった。
何かあれば恥ずかしそうにノアに助言を求めるナイジェルを見て応援したいと思った。しかし、ナイジェルが見初めたということは、その女は次期女主人となるかもしれない。相応しい女か調べる必要があった。
そして、ノアはその相手の正体に頭を抱えることとなる。調査結果は舞台女優の女だった。
ナイジェルが遊びでその女を誑かしているとは思えなかった。今まで貴族らしい女遊びをしてこなかったナイジェルの目は至って真剣だった。
むしろ、ナイジェルが遊ばれてる可能性の方が高い。美しい女優が貴族を惑わし財産を搾り取ることはよくある話だった。
「慎ましやかな子なんだ」とナイジェルは言う。
「そんなはずありません。舞台女優ですよ」
「初めての恋だと言ってた」
「出会う男皆に言っています」
「もしそうだとしても、好きなんだ、あの子の全てが」
せめて貴族の正妻が出来るまでにしてくれ、と念を押したが、彼は頑なだった。
愛や恋とはなんと愚かな事か。ノアは呆れたが、同時に少し羨ましくも感じた。
ここまで強く誰かを想うことに、尊さを感じたのだ。
後2話分、回想です。




