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22. ノアの本心

見習いから立場が上がり執事になったのは良いが、エルガルに誘われる度に誤魔化すのも難しくなってきたと、ノアは頭を悩ませていた。


「エレガルと呼んでちょうだい」

「キスをして」「抱いてほしいの」


そう強請られる度に、ノアの体は震える。

その震えは欲情の震えではない。怒りと憎しみ、強い嫌悪だ。


何とかエレガルの体に触れ、側から見れば甘い時間を過ごすも、自らを偽ることはできなかった。

名を呼ぼうとすれば殴られるほどの頭痛が。キスをしようと顔を近づければ猛烈な吐き気が。

抱くなんてありえない。エレガルを前に男としての機能は完全な沈黙だった。


しかし、ノアはやり遂げなければならない。

やっと執事の座を掴んだ。エレガルに気に入られることはすなわち、屋敷での地位が上がると同義だった。そして、一番手っ取り早い手段は、これだ。


今日も、酷い気分に悩まされていた。

エレガルとの時間は何にも耐え難い悪夢だった。

そんな強い苛立ちは、扉の前で狼狽えていたヴィオレッタに牙を剥いた。


エレガルの懐に上手く入り、侍女の地位を狙っているという女。ヴィオレッタが何かする度、エレガルも同じく周囲からの評価が上がる。


破滅を望むほど憎いエレガルが、ヴィオレッタの手腕によって、社交界で名を馳せ始めている。

ヴィオレッタのせいで、あの女は上機嫌に日々を送っている。これ程までに不快なことがあろうか。

 

それなのに、ヴィオレッタからずっと目が離せなかった。

秘密を知られ、憎んでもおかしくない。むしろ憎いはずだ。……いや、何故か憎みきれない。

気になる。気に入らない。知りたい。


その足の傷は何だ?

その野心の原動力は?

わざとらしい笑顔に隠された感情は?

何に動揺している?

何をすればその仮面を……


好奇心と欲望のまま、ヴィオレッタにキスをした。

前回の仕返しも込めた煽りのつもりだったが、頬を赤らめながらも挑発を忘れない彼女に掻き立てられた。


そして、”愛しているからこそ、大切にしている、だとか——” その言葉に我を失った。

当たり前だが、自分はそう思われているのか、と認識した絶望。

ヴィオレッタには、勘違いされたくない、というおかしな焦燥。

そんなことに激情してしまう、詰めが甘い自分に対する怒り。


狂わされる。ヴィオレッタを前にすれば、抗えない感情の波に襲われる。いっそこのまま——そう思って押し倒したが、理性を取り戻させたのもまた、彼女だった。


ヴィオレッタの問いに、動きを止める。


「 ”忘れられた愛人” ローズ……その人物のことを、どう思っていましたか」


——……


ヴィオレッタは、真剣な目で、覆い被さったまま喋らぬノアを見つめた。


賭けだった。

エレガルを憎いと言い、我を忘れたようにヴィオレッタを求めるノアの表情には、嘘も演技も感じられなかった。


言いたいことは沢山ある。まずこの組み敷かれている状況をどうにかしなければならないし、憎いというのが本心であれば、エレガルをどう憎み何故近づいているのかも知りたい。

それでも、ヴィオレッタが最初に聞いたのは、ローズのことだった。

 

願いが込められていた。

姉はこの屋敷で、本当の孤独ではなかったと、あのような結末だったとしても、確かに救われ、心を安らげる存在があったのだと、知りたい。


弱みとなり得るノアとエレガルの逢瀬に嫌悪を感じたのは、一度敵だと認定しても望みを捨てきれていなかったからだ、と気付いた。

 

姉の綴った通りに、ノアが優しい人物であって欲しい。姉はこの男に騙されるような女性じゃ無い。裏切られてなどいない。姉が信じた相手は本当に姉を慕っていたと聞きたい。そう思った。


ノアは体勢を変えて座り、ヴィオレッタを起こす。

そして言った。確かな声で。


「ミス・ローズは、気高く、美しい人だった」


ヴィオレッタは静かに息を呑み、ノアは苦しそうに顔を歪めた。


「俺はその時、あまりにも無力で……救えなかった」


たったそれだけ。しかし、充分だった。

彼の悔やむような声を聞いて、ヴィオレッタは涙を流した。疑いなどなかった。紛れもなくこれが彼の本心だと思った。


ああ、姉は皆から見捨てられていたわけではなかった。

確かに、救いの手が差し伸べられようとしていた。

姉の優しさと気高さ、愛を信じた美しさは、確かにこの男に響いていたのだ。


湧き上がる感情に浸る様に、深い呼吸をした。


「ヴィオレッタ、泣いているのか?」


ノアは、ヴィオレッタの頬に流れる雫の筋を見て、それから少し慌てたように拭った。

そして何かを言おうとした瞬間——扉の外から人の話し声が聞こえ、二人は肩を震わせた。


「この部屋、掃除したほうがいいのかなー」

「えーめんどくさいよ」

「とりあえず中がどうなってるかだけ見てみるー?」

それは侯爵邸のメイド達の何気ない愚痴だった。


ノアは毛布でヴィオレッタを覆い隠し、そして立ち上がって、ドアを開けた。


「すみません。この部屋を掃除されますか?」

「わ、あ……、えっと、」

「ここに滞在しているベレナール伯爵家の使用人、ノアと申します。一時的にこの部屋を借りているので、掃除は時間をずらしていただけると有り難いのですが」

「はい! はい! 勿論です!」


メイド達が黄色い声を上げながら駆けていく声が聞こえる。ヴィオレッタは、ほっと息をついて、ベッドから立ち上がった。

少し乱れた髪や服を整え、そして微笑む。

それは、取り繕っていない心からの笑みだ。


「ミスター・ノア。もしあの方を本当に憎いとお思いならば、明日起こることを楽しみにしていて下さいませ」


そうして、ヴィオレッタは周りを確認し、部屋を出る。


「ヴィオレッタ、聞きたいことがある」


ノアは引き留めるようにそう言った。


「私もです。でも、今はとにかくここを去らなければなりません。時間が経ちすぎました」

「……そうだな」


そうしてヴィオレッタは、その場を去った。


 ◇


「新聞は持ってきた?」


人目のつかぬ庭園で、マルグリットはヴィオレッタをいつものように呼びつける。


「……はい、こちらです」


ヴィオレッタは分かりやすく手を震えさせて新聞を渡した。


「ふふ、その怯えた態度、私大好きよ」


マルグリットは、堪えきれぬように声を上げて笑い、そして続ける。


「ああ、お前も見た目だけは綺麗だから、つい思い出すわ。あの女を」 

「あ、あの女、ですか」


さらに怯えたように言えば、マルグリットは過去に思いを馳せるようにいった。


「忘れられた愛人よ。最高に悲惨な最後だった。お前もそうなりたくなければ私の言うことを聞くことね」


そうして踵を返し、笑い声を響かせながら屋敷へ戻る姿を見て、ヴィオレッタも笑った。

媚びとプライドだけの間抜けなマルグリットが侍女まで登り詰めたのは、エレガルと同じ残虐性を持ち、主人の命令通りにローズを痛めつけたからだろう。


「次に怯えた態度を取るのは、どちらの方かしら?」

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