20. 攻防戦
次の日、ヴィオレッタは何事もなかったかのように仕事をこなす。
そしてそれは、ノアも同じ。
エレガルに用があって部屋に訪ねてきたノアもまた、いつも通りの無表情だ。同じ部屋にいても、二人は言葉も、目線すら交わさない。
「マルグリット、今日身につける宝石の件だけれど……」
エレガルはマルグリットに意見を求める。
今は、マルグリットに手柄を作らせる。そう決めているヴィオレッタは、何も言わずにエレガルの髪を巻いた。
そして、エレガルとマルグリットが昼の茶会へ向かう。ヴィオレッタもメイドの仕事に戻ろうと片付けを始めると、一連の流れを見ていたらしいノアに話しかけられた。
「どうした? あまり成果が出ていないようだな」
分かりやすい挑発。
昨日の今日でこの男は何を考えているのか。
ヴィオレッタは静かに目を閉じて、眉を下げた。
それは、真実を隠す顔。仮面を被った外向けの表情。
「そうですね……ミス・マルグリットはとても賢い女性のようですから、やはり簡単にはいきません」
「ほう、お前に何か考えがあることはわかった」
ヴィオレッタは誰にもバレぬように舌を打った。
◇
「なんなの?あの男は」
ヴィオレッタは部屋で頭を抱えた。
「お姉ちゃん、ミスター・ノアは見るからに最低な男よ」
一人、怒りのままボソボソと呟きながら、ヴィオレッタは新聞を書き殴る。
感情が乗って、つい走り書きのようになり、ぐしゃぐしゃと纏めてゴミ箱へ勢いをつけて投げた。
「ああ! もう、これも全てあの男のせい」
そして、暫くしてから新聞を拾い、マッチで燃やした。
「危ない……証拠を残すところだった」
◇
ナイジェルからの歌の依頼。
それは最後のパーティーの日に歌って欲しいとのことだった。
「曲は、任せるよ」
ナイジェルのその言葉に、ヴィオレッタは迷うことなく決めた。
喜劇『ヴィオレッタ』から、選ぼう。
細やかな嫌がらせのつもりだった。
姉とナイジェルを繋いだと書かれている、姉が最初に主役を演じた演目の曲だ。
貴族の男性と、平民の女性の恋物語。
様々な障害を乗り越えて、最後は貴族の男性が身分を捨てて二人は結ばれる。
夢みがちな姉はこの話がとても好きだった。
その中でも女性が恋をする心境を歌った曲はかなり有名だ。
「ああ、その曲なら得意だ」
侯爵邸で雇われた若い音楽家の男が言って、スラスラとピアノを演奏する。ヴィオレッタはそれに合わせて口ずさむ。
歌う時間は、楽しかった。
憎い相手を喜ばせるための歌。復讐のための歌。
それをわかっていても、ピアノの旋律に合わせて歌に感情を乗せる瞬間は、ヴィオレッタにとって何事にも変え難い有意義な時間に感じられた。
「君の歌声は、とても綺麗だね」
音楽家の男が、ヴィオレッタを褒める。
「ありがとうございます」
ヴィオレッタは素直に微笑む。
それは、本心からの笑顔だ。
歌を褒められるのは嬉しかった。
◇
長い廊下に秋の光が斜めに差し込む昼下がり。
ヴィオレッタが書類を抱えて歩いていると、不意に背後から声がかけられる。
「ヴィオレッタ、二人で食事を取らないかい?」
振り返ると、そこに立っていたのは、先ほどまで共に音を合わせていた音楽家の男だった。
「まあ、ご一緒したい気持ちは山々なのですが、今から別の仕事があって」
嘘ではない。別に時間を作ろうと思えば出来るが。
しかしヴィオレッタには、そんなことをしている暇はなかった。
「そうか、では明日は? いや、明日じゃなくとも余裕のある日を教えてくれないか」
「それ、は……」
思いのほか食い下がられ、ヴィオレッタは言葉に詰まる。別に食事くらい取ってもいいか、と適当な日を言おうとしたその時だった。
「ヴィオレッタ」
低く澄んだ声が、背後から割って入った。
「奥様がお呼びだ」
振り向くまでもなく、誰の声か分かった。
いつの間にそこにいたのか、黒髪の執事——ノアが静かにヴィオレッタの隣に立ち、青年に視線を向けた。
「割って入ってしまい、申し訳ございません。
急ぎの用でして」
「そんなに忙しいの?」
青年は戸惑いながらヴィオレッタを見る。
ノアの助け舟というのは癪に触るが、この会話の流れを無駄にするわけにはいかない。
「ええ……。だからすみません、まだ予定がわからなくて」
謝罪の意を込めた表情で頷くと、ノアの手がさりげなくヴィオレッタの背に添えられた。
そして、急かすように力を込めて距離を詰めてくる。
「それでは、失礼します」
そう言ってノアは軽く一礼し、ヴィオレッタの肩に手を置いたまま体を誘導する様に歩き出した。
それから暫く歩いた先。人目のつかぬ廊下で、ノアは歩みを止めた。
「……奥様が呼んでいるのでは?」
ヴィオレッタが問えば、ノアはふっと笑った。
「ああ、嘘だ。お前が困っているようだったから、声をかけた」
「まあ、それはどうも、余計なお節介を。恩を売るつもりですか?」
「どうだろうか。売れたならいいが、そう簡単ではないみたいだからな」
ノアは面白そうに笑う。距離が近い。
昼間の明るい廊下なのに、二人の間だけ空気が張り詰める。
少しの沈黙の後、こんな風にいがみ合っていても埒があかないと思い、その場を去ろうとノアから体を離した。
すると、ノアが驚いたような声を上げる。
「お前、その足……どうした?」
ヴィオレッタは自らの足元を見た。
長いスカートの裾が、ノアのズボンの装飾に引っかかっていて、少しだけ捲れていた。
「どうした、とは? あまり、女性の足をジロジロと見るのは無作法ですよ」
ヴィオレッタはサッと裾を払って、服を整える。
見られてしまっただろうか。その不安は的中した。
「傷とあざだらけだ。何があった?」
ノアの視線はいつになく真剣だった。
まるで本当にヴィオレッタを心配しているかのようで、思わず後ずさる。
「少し転けただけで——「嘘をつくな、そんなに酷くはならない」
被された声は、強い。ヴィオレッタは動揺する。
近頃のヴィオレッタは、ノアに対して上手く感情を隠せなくなってきていた。
「とにかく言えません」
無愛想に言い放つヴィオレッタに、ノアはそれ以上言わなかった。
しかし、強引に手を引かれ空き部屋に入れられる。
そして適当な椅子に座らせられたかと思えば、スカートが控えめに捲られた。
「な、何をするんですか! 変態!」
ヴィオレッタは驚いて少し顔を赤らめるも、ノアは動じず膝をついた。
「せめて、手当を」
それから、ノアは懐から香油を取り出し、足に塗り込む。そして、傷口に包帯を巻いていく。
「包帯……そんな物まで持ち歩いているのですか」
「有事の際、応急処置がすぐに出来るように」
ヴィオレッタは、複雑な表情を浮かべた。
あざと傷を、痛ましそうに見ながら手当をするノアは、まるで本心からヴィオレッタの身を案じているようだ。
ノアは姉の裏切り者だ。さらにナイジェルまで裏切っている。エレガルと関係を持ち、昨日はヴィオレッタを弄ぼうとしていた。そして、おそらくヴィオレッタの本性を探ろうとして、挑発してくるようになった。
——絆されるな。と、ヴィオレッタは何度も自分に言い聞かせる。
……何故これほどまでに心が揺らいでいるのか。
姉やラビーヌといった、大好きな人達からの高い評価?
伯爵邸の中で、良くも悪くもヴィオレッタが唯一感情を曝け出している現状?
今まさに、復讐の為に受けた傷を癒してくれているから?
ヴィオレッタは、それ以上何も考えまいと目を強く瞑った。




