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19. 挑発のキス

「ヴィオレッタ、大丈夫かい? 疲れているようだ」


ナイジェルはそう言いながらも、ヴィオレッタを部屋に戻さなかった。ナイジェルの提案の元、庭園にでて共に歩く。


ナイジェルがローズの名前を呼び倒れた翌日——彼は何事もなかったように元気を取り戻し日々を過ごしていた。

ヴィオレッタが探りを入れようと身を案じる言葉を掛ければ、「迷惑をかけたみたいだね……実はあまり覚えていなくて」と、二人のやりとりすら忘れていたようだった。

 

「旦那様、この場で私たち二人で庭園を歩くのは、得策ではありません……見つかればどのような噂をされるか」

「ああ、そうだね……でも、少しだけ」


気まずそうに頭をかきながら、ナイジェルは続けた。


「君は歌を歌うと言っていたよね」

「はい、少しだけ……」


ナイジェルと出会った時の会話を思い出す。


“君は、歌は好きかい?”

”機会があれば、また聴かせてほしい”


「ラングレイ侯爵から、よく観劇をするという話を聞いた時、ヴィオレッタが歌を歌うと聞いたのを思い出して……もしよければ今度のディナーの際に歌ってもらえないかな」


ヴィオレッタは、ゆっくりと目を閉じた。

この忌々しい男の為に歌いたくない。それはヴィオレッタの気持ちだが、復讐のためにはここで取り入る必要がある。


ヴィオレッタは苦渋の決断を下した。


「光栄です……。旦那様の恥にならぬよう、準備いたします。

すこし足を痛めていて、女優のように踊ることはできませんが」


控えめに微笑めば、ナイジェルは大層嬉しそうに笑い、そしてヴィオレッタの手をぎゅっと掴んだ。


「楽しみだ……ヴィオレッタ。足は大丈夫なのかい?」

「ええ、軽い怪我のようなものですから。ご心配なく」


ヴィオレッタは目を細め、そっと掴まれた手を離す。

ナイジェルは、「ああ、すまない」と慌てた。


「噂をされては大変です……。帰るのも別々にいたしましょう。私は少しここで時間を潰しますので」

「……そうだね。では、また詳細を伝えるよ」


そう言ったナイジェルの表情には、何故か寂しさが少し宿っているように見える。

そうして、何度か振り返りながら屋敷へ戻っていった。

完全に姿が見えなくなるまで、ヴィオレッタは優しく微笑み続け、そして顔を歪めて悪態をついた。


……面倒なことは連続して起こるものだ。


「お前、ついに旦那様に色目を使いはじめたのか」


背後からかかる低い声に、ヴィオレッタは、額に手を当てて、大きなため息をつく。


「ミスター・ノア。色目を使っているだなんて、心外です」


取り繕う体力も残っておらず、その男を感情のままにキリキリと睨む。いつからかは知らないが、ヴィオレッタとナイジェルのやりとりを、ノアは影で見ていたようだ。


「あんなに憧れていた奥様を裏切ってまで、旦那様に取り入りたいのか?」


ノアの咎めるような強い口調には、怒りのような色が篭っていた。

それはどちらのセリフだ。まあ、この男は取り入ろうなんてものではなく本当に情愛からエレガルとの関係を持っているのかもしれないが。どちらにしろ、趣味が悪い男だ。


「貴方に言われたくありませんね。その綺麗な顔を使って、奥様を垂らしこむ悪い男。実際に人を裏切っているのは貴方でしょう」


ヴィオレッタが小さく吐き捨てると、ノアは苛立ちを隠さずに大きく舌打ちをした。


「図星をつかれ、腹を立てているのですか?」


ヴィオレッタは苛立った様子のノアを見て溜飲が下がり、また煽るように言葉を続けた。


「ああ、貴方の言う通りに旦那様に色目を使って近づこうかしら……そうすればきっと今よりも良い地位を頂けるわ。異例の若さで執事に成り上がった、とある男性のように」


ヴィオレッタは、大きな瞳をノアへ向ける。その瞳に、わざとらしい色気を潜ませた。

 

「その手腕を見習いたいので、どうやって奥様を落としたのか教えてくださいますか?

男女の色事には、興味がありますから」


溜まった不満を発散するように嫌味を連発したヴィオレッタは、少し心地よくなって、満足げに笑う。

しかし、その表情も、一瞬で崩れることとなる。


ノアの黒髪が揺れ、それからその美しい顔がヴィオレッタの視界を埋めた。

薔薇のような香りが鼻を掠め、冷たい指がヴィオレッタの輪郭をなぞる。

少し動けば、触れ合いそうな距離。ヴィオレッタの腰に、ノアの手が扇情的な動きで滑る。


「望み通り、教えてやろうか」


突然の事に、ヴィオレッタは息を呑んだ。

ノアの放つ低い声とその表情は、人を惑わす強烈な色気を孕んでいた。


気を抜けば、流されそうになる。

ヴィオレッタの脳は大きな警報を流し、それからグッと唇を噛んで、気を持ち直す。


「……充分です。ミスター・ノア」


ヴィオレッタは抵抗するように、ノアの胸元に手を置いた。

彼の心臓の音が、伝わる。その静かで艶かしい雰囲気とは裏腹に、ドクドクと大きな音を立てていた。


——なんだ。平常心というわけではないようね。


ヴィオレッタは自信を取り戻して、それから一歩を踏み出す。

そして、自分の方がいくらか上手だ、と示すように、その唇に触れるだけのキスをした。

微かに目を見開くノアの表情を確認し、そして笑う。


「貴方のやり方は、よく分かりました」


ヴィオレッタはノアからそっと離れた。


「貴方は、奥様だけに限らず私すら落とそうとしたのかもしれませんが……それは無理な事です。だって、明らかに動揺しているのは貴方の方ですもの」


悪戯に口角を上げれば、ノアの表情が、わずかに揺れた。そしてすぐに、挑むような笑みを浮かべた。


「そんなつもりはなかったが……なるほど、それも面白そうだ」

「貴方が思っているほど、私は甘くありませんよ」


ノアの視線が、鋭く射抜いた。


「……お前を侮ったことはない。だが、覚えておこう」


二人は、しばらくお互いを探るように見つめ合い、そして、ヴィオレッタから先に、くるりと背を向けた。


「失礼いたします」


そうしてヴィオレッタは部屋へと歩く。

心臓の音はこれ以上ないほどに、強く脈打っていた。


 ◇


奪われたのは、唇じゃない。

いや、唇もそうだが……本当に奪われたもの、それは主導権だ。


ノアは取り残された庭園で、離れていくヴィオレッタの背を睨むように見つめる。

違和感や警戒からくる興味が次第に形を変えていく。


ヴィオレッタとの少ない関わりの中で、ノアの心が支配されていく。

危険人物に変わりはない。


しかし、からかい、揺さぶり、動揺させてやりたくなる。ヴィオレッタの完璧な仮面を剥ぎ取ってやりたい。その中身を覗き込みたい。

 

自分から仕掛けたはずだった。

ナイジェルと手を握りあうヴィオレッタを見て、ざわりと心が揺れた。それは、主人に降り掛かる刃を危惧してのことか、それとも別の感情か。

 

唇に残るかすかな温度に、指を当てる。


“明らかに動揺しているのは貴方の方ですもの”


「確かにその通りだ、」

 

ノアは自嘲気味に呟いた。

そして小さく息を吐き、それから触れるだけの軽いキスを思い出して、体を震わす。


言った通りに落としてやろうか。

泣かせて、縋らせて、その強気な仮面を剥がしてやろうか。

……いや、自分が本当に見たいのは、屈服した姿だろうか。


ノアの脳裏に、”忘れられた愛人” の朗らかな笑顔が思い浮かぶ。

優しく愛に満ちた表情。希望を滲ませる話し声。

そして、優雅に踊って歌う姿。

 

何故今、あの人の姿が浮かんだ?

ノアは酷い気分に苛まれ、ぐっと拳を握りしめた。


 

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