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1. 復讐を誓った日

ヴィオレッタが伯爵邸に使用人として雇われる、その半年前のこと。


その日、とある街の劇団の寮から女の泣き叫ぶ声が響き渡っていた。

そしてその前を、老若男女が噂をしながら通っていた。


「酷い死に様だとよ、プリマドンナの……」

「ああ、あのえらい別嬪の? お貴族様の元へ嫁いだんちゃうんか?」

「まあ、所詮平民の、しかも舞台女優。娼婦みたいなもんやからな。いい扱いされんかったんやろ」

「気の毒に。じゃあこの泣き声は、妹のリリーちゃんか。あの子は姉にベッタリやったからなあ」


その噂はリリーの泣き声を乗せて広がっていった。

 

リリーの姉、ローズが死んだ。その死に様は噂通りに散々なものだった。

リリーはその日、歌の稽古中だった。「ローズが酷い姿をして帰ってきた」と突然呼ばれ、祈りながら走った。

ようやく駆けつけた時、ローズは寝台に弱々しく横たわっていた。

 

かつて豊満だった体は枝のように痩せ細っていて、包帯が巻かれた足がおかしな方向に折れ曲がっていた。目は窪んで肌に血色はなく、赤い髪はまばらにくすみ果てて、喉には引っ掻いたような傷痕が無惨に残っていた。

服を脱がせば腹が異様に膨れていて、妊娠を疑ったがそこに命は宿っていなかった。


「かなり衰弱しています。正直、なぜ生きているのかわからないほど……」


医者は出来る限りを尽くしたが手遅れだった。

瀕死のローズが最後に発した言葉は、今は亡き両親でもなく、必死に手を握る妹の名でもなかった。


「……ナイジェル様…………」


そんな掠れた声を出して静かに天へ登った。


ローズはリリーの自慢の姉だった。平民として生まれ、両親の顔もほとんど覚えていないが、それでも生活に困らなかったのはローズの働きと、誰からも好かれる優しい性格のお陰だった。


王立オペラ座のプリマドンナ。

舞台女優としてその名を轟かせていたローズは、大輪の薔薇のような艶やかな赤い髪が特徴の、華やかな女だった。

高らかに伸びる歌声としなやかな踊り。そして、大きな赤い瞳が輝く洗練された容姿。


真紅のカーテンが開いて始まるのは、眩い光に照らされたローズの舞台。貴族たちは皆、金も宝石も花も惜しまなかった。

リリーはその姿に、強く憧れた。


この国において、舞台女優とは、決して高い身分に属する職ではない。バレエや演劇で活躍する彼女たちは、広く尊敬される存在というより、憧れと偏見の両方を受ける特殊な立場にあった。

煌びやかな衣装を着て、歌や舞を披露する一方で、貴族のパトロンを手に入れて愛人や高級娼婦のような生活を送り、大金を搾り取っていく。

皆そうやって生計を立てていた。

 

しかし、ローズは異例だった。

体を売らずに頂点へ立った。

そして突如引退を決め、愛を誓った伯爵様の元へ行くと言った。

「騙されている」と皆が疑った。舞台女優が貴族と本当の意味で結ばれることなど無いに等しいからだ。

それでも、その顔は愛と幸せに満ちていた。

 

そして、本当に結婚するのだと言った。舞台女優を目指す者は疑いながらも、まるで物語の主人公のような劇的な大恋愛とその成り上がりに憧れた。


「お姉ちゃん……どうして?」


リリーの問いに反応はない。

ただ苦しく搾り出された自分の声が空気へ溶けていくだけ。


「二人で舞台に立とうって、約束して……でもお姉ちゃんが幸せになるっていうから、私は送り出したのよ」


その声色は次第に怒りがこもり責めるように強くなる。


「幸せにならなきゃ意味ないじゃない! ねえ! どうして!? 何があったの!?」


リリーは姉の幸せを誰よりも願っていた。

それこそ、憧れの姉と共に舞台に立つ夢を諦めるほどに。


姉の死体を揺らし続けても、真夜中だろうが構わずに泣き続けようとも、誰も咎めなかった。皆、リリーがローズの事を、家族として、姉として、舞台女優として、もっとも敬愛していたことを知っていたからだ。


リリーの悲痛な叫びは、一日中続いた。



それから数日が経った。

葬式が終わり、リリーはローズの遺した少ない荷物を整理していた。親切にも誰かがオペラ座の施設へ送ってくれたようだった。

高価なものは赤い宝石だけだった。

たくさんの貢物があったはずなのに。

 

簡単な仕分けを終え、最後に手を付けたもの。

それはローズの日記だった。

分厚い日記帳は美しい装飾がなされているが、異様に汚れている。四桁の数字で鍵がかけられていた。


どうしてローズはあのような姿でこの世を去ることへなったのか。リリーはその日記を開くことに抵抗はなかった。何があったのか知りたかった、


キリのいいゾロ目や思い当たる誕生日を入れるも開かない。

しばらく試し、ふと思いついた。


「お姉ちゃんが、初めて舞台に立った日……」

 

ゆっくりと数字を回すと、かちゃりと音を立てて錠が外れる。リリーはページをゆっくりと開いた。

 

『今日は初めて主役として舞台に立った。

舞台には何度も立っているのに主役として歌を歌うのはこんなにも緊張するのね……。リリーだったら、難なくこなせるのかも。

そういえば、素敵な殿方がいらっしゃった。大きな拍手が聞こえて、目が合ったと思えば……ふふ、とても面白い方だった』


舞台のこと、友人のこと、自分のこと。

事細かに日々を綴る綺麗な文字は、紛れもなく姉のものだった。

初めの方は懐かしい思い出に思わず頬が緩んだり、リリーを心配する文に涙を溢したりした。しかし、読み進めるにつれて、ページを捲る手が震え始める。


『恋に落ちた』『私の歌を好きと言ってくださった』

『一緒になりたい』『とても誠実な方』

…………

『ご両親の反対を押し切って、私と結婚すると言ってくれた』

『お腹の中の子と皆で永遠に、幸せになれますように』


最初は姉が恋に落ちた貴族のナイジェルと過ごす、希望に満ち溢れた尊い日々が綴られていた。


『ナイジェル様はあまり帰ってこない』

『本当の妻であるという女性が屋敷へやってきた』

『この屋敷を出る前に一度しっかり話さなければ』

…………

『苦しかった』『痛い』

『居なくなってしまった』

『ナイジェル様に会いたい』


日記に綴られた内容は……これ以上ない悲劇だった。結婚を約束した貴族の男に見捨てられ、その屋敷で壮絶な扱いを受ける、凄惨なローズの日々が書かれていた。

暴力、堕胎、孤独。

そして愛する人からの裏切り。


「そんな……嘘よ、結婚したんじゃなかったの……?」


リリーの手はガタガタと震え、呼吸が浅くなった。


「なんてこと……! お姉ちゃんは、騙されて、殺されたんだわ! ……うぅっ、ぇ、」


込み上げてくる胃酸を床を吐き捨て、キリキリと痛む喉を掴んだ。

 

「許さない……」


ローズの最期の姿を思い出す。

美しかったローズが酷くボロボロだったのは、伯爵邸での扱いによるものだったのだ。


「許さない、許さない、許さない!」


どれだけ怒りを込めて叫ぼうが、ローズは戻らない。

ローズは失意のままに死んで、生き返ることはない。

リリーはもう姉の舞を見ることは出来ないし、歌を聴くこともできない。話す事も叶わない。優しく笑いかけられる事もない。


「返してよ! お姉ちゃんを、返して!」


乱暴に叩きつけた日記の、偶然開いたページに目をやる。


『お腹の子が女の子だったら”ヴィオレッタ”という名前にしましょう。私とナイジェル様を繋いでくれた美しい物語の主人公』


「ヴィオレッタ……」


リリーは誓った。

姉を死に至らしめた人達へ、必ず、復讐すると。

 


——……



振りきしる雨は、涙の代わりにリリーの頬を濡らす。

薔薇が咲き乱れる伯爵邸の広い庭園を超えた先に、大きな屋敷の扉が現れた。

 

あまり姉に似ていなくてよかった。

ローズが華やかな薔薇なら、リリーは可憐な白百合だった。


自慢の淡い白金の髪を染粉で黒く変え、地味な服を見に纏う。

傘を持つ手を強く握り、小さく息を吐いた。

それから、リリーは、……ヴィオレッタは、笑顔を浮かべた。柔らかな笑顔を。


黒髪の男が扉を開ければ、無垢な顔をして見せる。

 

「本日よりお世話になります。ヴィオレッタと申します」

 

そうして誰にも気付かれないよう、心の中で唱えるのだ。

——ベレナール伯爵家。姉を殺したあなた達を、潰しに参りました。

読んでいただきありがとうございます。

長くお付き合いいただけると幸いです。


※このお話は完結させてから投稿しています。

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