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17. ラングレイ侯爵邸

『ナイジェル様、どうして』


——……


ヴィオレッタは日記を開いていた。


人は、ものを覚える時に、文字を書く。

文字を書いて頭の中を整理して、そして指の動きで記憶していく。

ローズの日記は、辛い出来事を記憶に残さないようにか、どんどん文字が減っていた。


ノアの言葉を、思い返す。


“旦那様は忘れている、何もかも”


つまり、この屋敷の者達が言う “忘れられた愛人” という呼び名は、ナイジェルの興味がローズからエレガルへ移り変わったことを表現しての ”忘れられた” ではなく、そのまま意味で記憶を失ったということか。


しかし、ローズが死ぬ前——伯爵邸で暮らしている時に記憶を無くしていたとしたら、忘れてもなお愛人として屋敷に留めさせるのは不自然だ。


正妻がやって来てから、一度もナイジェルに会えることなく死んだローズは、ナイジェルが記憶を失ったことも、何故自分が突然愛人の立場になったのかも何も知らないようだった。


別の可能性——ローズが死んだ後に記憶を失っていたとしたら。

ナイジェルは自らの意思で姉をぞんざいに扱い、酷い仕打ちを促し、衰弱の上に死んだローズを綺麗さっぱり忘れていることになる。


様々な可能性を考えたが、ヴィオレッタにとってどちらであってもあまり関係はなかった。姉が苦しんで死んだ事実は変わらないのだから。心の中を支配するのは、変わらず、怒り、恨み、憎しみだった。


「だからあんなに優しい表情を浮かべていたのね。自らの罪を忘れているから。お姉ちゃんを悼むことなくのうのうと生きるなんて、許さない……」


どちらでもいい、やることは一つだ。

ただ、そんな中、一つだけ引っ掛かり、解き明かしたい事といえば——


「ミスター・ノアの、反応……」


ヴィオレッタが夫人との関係を脅しに使った時でさえ見せなかった、動揺。ローズの名前を聞きナイジェルの肩を揺らしていたあの時、何を思っていたのか。

つくづく、分からない男だ。


————……


ノアは(うな)され続けるナイジェルの額に冷水を絞ったタオルを当て置き、あのメイド、ヴィオレッタのことを考えていた。


クララの一件から、完璧な仮面が崩れ始めている彼女。

今は侍女を目指しているという彼女の目は、強い野心で溢れていた。


あの朗らかな笑顔の奥に隠された、時折宿る動揺や憎しみ。彼女が来てからこの屋敷で起こったこと……良くも悪くも良くも関心を掴んで離さないヴィオレッタ。


グスタフと交流しているかと思えば、グスタフは捕えられた。

クララに目を付けられていると噂に挟めば、クララは数日後、ナイジェルの怒りを買った。

そして、今は侍女マルグリットの地位を狙っている。

単なる偶然か?それとも……。


——……


数日が経ち、ベレナール伯爵一行は、広大な森と狩場に囲まれた灰白色の石造りの大邸宅、ラングレイ侯爵邸に訪れた。


幾つもの尖塔と広い前庭、高くそびえる正門には侯爵家の紋章が掲げられ、城のような威容だった。


門が開くと同時に、整列した使用人たちが一斉に頭を下げる。


「ベルナール伯爵ご夫妻のご到着です」


執事の朗々たる声が響き、ナイジェルとエレガルが馬車を降りる。

ヴィオレッタ含む数名の使用人もその後に続き、屋敷に通されると正面階段の上で侯爵夫妻が迎えた。


「ようこそ、遠路はるばる。

この邸での滞在が、皆様にとって実り多きものとなりますよう」


形式張った挨拶が交わされ、一行はそのまま、長い回廊の奥へと案内されていく。

客人たちの部屋は、夫人の居室を中心に、同じ階に用意されていた。


「こちらがベレナール夫人にご用意した部屋にございます。

そして、侍女殿、執事殿の部屋も、それぞれ一人部屋をを用意しております。侍女殿の部屋は、ベレナール夫人の隣の部屋でございます」


案内役の女中が部屋を説明をすれば、マルグリットは当然のように顎を上げ、満足げに笑った。


ふと、エレガルが女中に話しかける。


「このヴィオレッタという使用人にも、私の隣の部屋を用意してもらえないかしら?」

「かしこまりました。では、反対側——右隣の部屋をすぐにご用意いたします」


女中は頭を下げて、他の使用人に声をかけた。


「奥様……よろしいのですか?」


ヴィオレッタは、目を輝かせて問う。

 

「ええ。支度のことで、すぐ呼べた方が便利でしょう?」


何気ない口調で言うエレガルの言葉に、マルグリットの口元が、ひくりと歪むのがわかった。

ヴィオレッタは露骨な不機嫌と敵意が宿った視線を浴びながら、静かに礼を取る。


「光栄でございます、奥様」



休む間もなく、その日の夜には到着を祝う晩餐会が開かれることになっており、ヴィオレッタはエレガルの部屋へ呼ばれた。


部屋には、ドレスが幾着も掛けられている。

髪を梳かされながら鏡の前に座るエレガルは言った。


「今夜は……、ルードヴィル夫人に負けないよう仕立てて頂戴」


ルードヴィル夫人とは、マーガレット・ルードヴィル伯爵夫人の事だ。

同じくこのラングレイ侯爵邸に招かれた伯爵家の女性で、爵位は同格。エレガルが社交界で常に張り合っている相手だ。


もちろん、ヴィオレッタは既に調査済みだった。

「ええ、ええ、勿論です奥様」

そう言って、深い色をしたエメラルドの宝石を飾りつける。


「それは地味よ。こちらにしましょう、奥様」


マルグリットは素早くエメラルドを取り外して、嫌味たらしく言った。

それを聞いたヴィオレッタは、静かに目を細めた。

 

「ルードヴィル夫人はよく、新しい大粒のダイヤを自慢されているみたいですね」

「ええ、そうよ。だから地味では困るのよ」


マルグリットは、ギラギラと派手な装飾のなされた宝石を光に翳しながら選んでいる。

 

「でしたらやはり、このエメラルドをお付けください。

この意匠は、一見地味ですが古くから愛されている質の良い物でございます。

本日は、『流行を追い求め、ギラギラと飾り立てるルードヴィル夫人』と『伝統を愛する洗練されたベレナール夫人』の対比を示しましょう」


ヴィオレッタはそう言って、マルグリットが箱へ直そうとしたエメラルドを奪い返す。


「ラングレイ侯爵家は代々長くから伝わる、伝統のある家だとお聞きしています。

ラングレイ夫人もまた、慎ましやかなお方であるとか……。きっとお気に召されるはずです」


その言葉にエレガルは満足そうに鼻を鳴らし、それから言った。


「さあ、ヴィオレッタ。用意をお願い」

「はい、奥様」


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