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16. 忘れられた愛人

『痛い。痛い。ナイジェル様に会いたい。』


——……


屋敷を包む空気は、いつの間にか夏の名残を失い、

ひんやりとした秋の匂いを帯びていた。


庭園の並木は、まだ青を残しながらも、ところどころが黄金色に染まり、風が吹くたび乾いた葉がかさりと音を立てて落ちていく。


そんな日の昼下がりに、エレガルはヴィオレッタを呼びつけた。

 

「ヴィオレッタも、同行しなさい」

 

秋から冬にかけて貴族達は都会を離れ、本拠地である領地の大屋敷へ戻ることがある。


そして、屋敷に親しい友人や有力者を招待し、数週間から一ヶ月ほど滞在させる。

男性は狩りに熱中し、女性は屋敷で自由に過ごす。

しかし、夜は正装しての豪華なディナーが毎晩行われる。

都会でのパーティーと違い、二十四時間、同じ屋敷に泊まり込み、親睦を深めたり、情報を交換したり、時には地位を張り合うのだ。

 

エレガルとナイジェル——ベルナール伯爵夫妻も、貴族の領地に呼ばれていた。


「光栄でございます。奥様」

「ええ。それと……ノアも」


エレガル夫人のその言葉に、ぴくりと体を震わせた。

ヴィオレッタの後ろには、いつの間にかノアが立っていた。


「奥様、私は旦那様の不在時にここを管理しなければなりません」

「大丈夫よ、一ヶ月ほどだもの。代わりのものを用意するわ」

「しかし——「お願いよ、きっとナイジェルも同意するから」

 

二人の関係を隠す気はあるのだろうか。

エレガルの声は、誰と話す時よりも甘く優しい。

わざわざ告げ口をせずともいつか明るみに出るのではないか。ヴィオレッタは呆れて、目をぐるりと回した。

 

——……

 

秋になると、薔薇も美しく咲き始める。

風が少し肌寒い夜、ヴィオレッタは庭園を歩いた。


赤い薔薇を見ると、姉を思い出す。

憎い人達に囲まれながら大嫌いな伯爵邸で時を過ごしているが、この庭園だけは心が少しだけ落ち着くような気がしていた。


静かに花に触れていると、ふと人の気配がした。

サッと身を隠し、様子を見る。

そこには淡い栗色の髪をした、ナイジェルがいた。


ヴィオレッタは、首を傾げる。

この時間にナイジェルが庭園を散歩するのは珍しいことでは無い。

しかし、何故か歩きもせず一点を見つめていて、その姿は酷く哀愁を漂わせていた。


「旦那様……?」

「ああ、ヴィオレッタ……」


何か弱点に繋がるかも、とナイジェルに近づけば、はっとしたように振り返る。その顔は、複雑そうに眉を歪めていた。


「どうかなさいましたか?」

「いや、大丈夫……ありがとう」


ナイジェルは、大丈夫、という言葉に似合わない苦々しい笑顔を浮かべ、頭を抑えて座り込む。


「旦那様……!」


慌てて駆け寄り体をささえると、ナイジェルは小さく「すまない……」と答えた。


「少し、休みましょう」


庭園のベンチに腰掛けたナイジェルは、しばらくして漸く調子が戻ったようで、自嘲気味に笑った。


「最近、突然頭が痛むんだ」

「まあ、大変。お医者様は呼ばれましたか?」

 

ヴィオレッタは顔を覗き込む。血色はまだ完全には戻っておらず、青白い顔をしていた。


「ああ……原因は分からなかった、心因性のものだろうとだけ」

「心因性……心当たりは?」

「何となく、ね。」


ナイジェルは、深くため息をついた。それ以上は口を噤むので、ヴィオレッタは詮索をやめた。


「とにかく、安静にしてください。この季節、夜の庭園は冷えますから、あまり出歩かない方が……」


すると、今まで弱々しく話していたナイジェルは、突然ヴィオレッタの言葉に強く反応した。


「む、無理なんだ! 何故かは、わからない。

僕は、毎晩この庭園へ足を運んでしまう。

祟りのようだ。毎晩、毎晩……」


ガタガタと大きく震えるナイジェルを見て、息を呑む。

祟りのよう——ヴィオレッタは祟り含む霊的な存在を全く信じていないが、ナイジェルの異様な怯えように、もしや姉が祟っているのだろうか、などと考えた。


そしてこれは、使える。と思った。

ヴィオレッタは慰めるように優しい声で聞く。


「ナイジェル様は何か、祟られるようなことをしたのですか?」


何も言わないナイジェルに、さらに追い打ちをかける。


「例えば、人を傷つけたり、裏切ったり……、」


ヴィオレッタがそのまま続けようと口を開くと、突然、ナイジェルが何かに取り憑かれたかのように突然震えを止めて、放心したような顔で一言呟いた。


「ローズ……」


ヴィオレッタの心臓が、大きな音を立てる。

しかしそれもすぐに掻き消された。


「旦那様……? 旦那様!」


ナイジェルは突然、その場に倒れ込み気を失った。


 ◇


「お前が何かしたわけでは無いんだな?」

「あり得ません」


その失礼な物言いに、ヴィオレッタは苛立ちを覚えた。

気を失った男性の体を持ち運ぶことはできなかったので、急いで屋敷に戻ったところ、丁度見つけた男がノアだったのだ。仕方なく声を掛け、ナイジェルを部屋まで運ばせることとなった。


ベッドに寝かされたナイジェルは苦しそうに魘されていている。

「それでは、私はこれで」と扉に手をかけた瞬間、ナイジェルの口が微かに開いた。


「……ローズ」


ヴィオレッタの心臓は先程と同じように大きく跳ね、扉から手を離す。

今すぐにでも叩き起こして、その姉の名前を呼ぶ真意を問いたい。

そしてそのまま、喉を切り裂いてやりたい。

姉を殺したお前が、気安くその名を呼ぶなと怒鳴りつけてやりたい。


視界が暗くなるような怒りを抑えつける。

目の前にはノアがいるのだから。

ノアはどんな反応をするのか、と振り返ると、驚いたように目を見開いてナイジェルを凝視していた。


「旦那様……、旦那様、今、何と……」


切羽詰まったような声を出し、寝かされたナイジェルの肩を揺らし始める。

その異様な光景にヴィオレッタは疑問を覚え、今なおナイジェルを揺らすノアに話しかけた。


「その……ローズ、と言うのは? 旦那様は先程も、仰っていました」

「それは本当か!?」

「ええ……」


ノアの気迫に圧倒され、ごくりと喉を鳴らす。

しかしそれも束の間。鋭い目を見開いていたノアの表情が、みるみる悲痛な面持ちにかわっていった。

 

「ローズ……と言うのは……、“忘れられた愛人”だ。かつて、旦那様が愛していた人だ」


“かつて”愛していた人。ヴィオレッタの頭が殴られたように痛んだ。

息が小さく漏れ始める。落ち着かせようと手を握るも、汗ばんでいて、うまく力が入らない。

感情を抑えろ、泣くな、震えるな。

ヴィオレッタは、吹き荒れる嵐のような脳内をどうにか理性で押さえ込む。


「その名の通り、旦那様は忘れている」


ノアは苦しげに吐き捨てた。


「忘れている……?」

「そうだ。記憶がないんだ。何もかも。

まあいい、とにかく、お前はもう戻れ。……どうした?顔色が悪い」


はっと顔を上げて、嘘をつく。


「旦那様の身を案じて……不安になってしまって。

では、失礼いたします」


そうしてヴィオレッタは足早に、部屋を去った。

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