9. 時間を合わせて
『ナイジェル様からいただいたドレスが切り裂かれていた。
足の火傷が痛む。紅茶ってあんなに熱いのね。
きっと、あれはわざとだと思う。それでも何も言えなかった。
手紙の返事は誰からもない。部屋から出してもらえない。寝ようと思っても、硬いベッドじゃあまり眠れない。』
——……
夜の庭園は、昼とはまるで別の顔をしている。
月明かりに照らされた赤い薔薇はほんのり艶めき、風に揺れる葉の音だけがその場を支配していた。
ヴィオレッタはその小径を、ゆっくりと歩く。
「……ヴィオレッタ?」
不意に名を呼ばれ、足を止めた。
振り返ると、木立の影から現れたのはナイジェルだった。
「旦那様、こんばんは」
頭を下げると、ナイジェルは少し気まずそうに目線を逸らし、それから遠慮がちに言った。
「……ヴィオレッタって、良い名前だね」
「ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです」
ふわりと微笑み、胸元のブローチにそっと指を添える。
「そういえば、本日はありがとうございました。
このブローチの件、旦那様が割って入ってくださらなかったら……」
「いや、あれくらい当然だよ」
ナイジェルは首を振り、困ったように笑った。
「それにしても、あんなクララを初めて見た。長く勤めてくれていて信用していたんだけどな……いつもああなのかい?」
「……きっと、疲れていらっしゃるのです。どうか、悪く思わないでください」
「君は優しいんだね」
「旦那様こそ、お優しいです……」
——私の姉には、優しくなかったみたいだけれど。
ヴィオレッタの中にリリーの叫びがこだまし、控えめに呟いて礼をした。
「それでは、失礼いたします」
ナイジェルは何か言おうとして、言葉を探すように口を開きかけたが、それを見逃さず重ねるように声を出した。
「おやすみなさいませ、旦那様」
「ああ……おやすみ」
一人残されたナイジェルはその可憐な女の後ろ姿をぼんやり眺めていた。
◇
別の日。ヴィオレッタは、また夜の庭園にいた。
前回とは違い月は出ておらず、深い灰色の空が重々しく空を覆っていた。
そして、ヴィオレッタの見た目も全く違う。
全身が水に濡れ、エプロンは無惨にも切り刻まれていて、ところどころ露出する肌を手で隠していた。
足にはあざを作り、辿々しく進んでいく。
ああ、簡単すぎる。ヴィオレッタはそう思い、人の足跡が聞こえ始めると、全身の力を抜いて地面に倒れ込んだ。
「君! 大丈夫か!」
慌てて駆け寄る男の声が聞こえ、ヴィオレッタは辛そうに顔を上げる。
「ナイジェル様……?」
ヴィオレッタの酷い状態に、ナイジェルは慌てて体を支え自らの外套をかけた。
「君は……ヴィオレッタ?
どうかしたのか?」
「旦那様の外套、暖かくて安心します……」
問いには答えず、儚げに微笑んだ。
「そんな事を言っている場合じゃないよ、さあこちらに。何があったのか聞かせてくれ」
ナイジェルはヴィオレッタの体をしっかりと支えて屋敷の中へ運ぶ。
ヴィオレッタは意味ありげに目を伏せて、涙を流した。
「何があったかなんて……言えません」
そのもどかしさに、ナイジェルは余計興味を引かれたようだった。
「君を助けたい」
ヴィオレッタはしばらく黙り込んだ後、足に作った青いあざをゆっくりとさすりながら、か弱い声で呟いた。
「私が悪いのです……任された仕事をこなせなかったので……」
「……もしかして、クララか?」
ナイジェルが強く問うと、ヴィオレッタは目を見開いて、それからまた涙を流した。
「酷い事だ。もしかして、他の人も被害に……」
顔を青ざめさせるナイジェルに、ヴィオレッタは呟く。
「アンナ……」
「アンナ?」
「ご存知ですか……? ここに来た頃、噂話でアンナという女性が酷い折檻の上に辞めさせられたとお聞きして……少し共感した私は手紙を出したのです」
「辞めさせられた……? 返事にはなんと?」
「……肯定とだけお伝えします、」
そして、ヴィオレッタはふるふると手を震えさせた。
「旦那様、すみません。少しだけそばにいてくれませんか……?」
「……ああ、君がそう言うのなら勿論そうするよ」
それから、数分。ヴィオレッタはナイジェルの手を握ったまま涙を流した。
そして枯れた頃に、立ち上がる。
頬を赤らめて「お恥ずかしいです」と呟き、ナイジェルの表情を確認した。
ヴィオレッタはその表情に狼狽えた。
ナイジェルがひどく苦しむように眉を顰めていたからだ。
「ナ、ナイジェル様……?」
恐る恐る名を呼ぶと、ナイジェルははっと気が付いて「何でもないんだ」と笑い、そしてヴィオレッタを部屋まで送った。
ナイジェルに支えられながら片足を引き摺るように歩いたヴィオレッタは、部屋の扉が閉まった瞬間、痛みなどないように歩き出す。
このあざは偶然仕事をしている時にぶつけて変色したもので、何もしていなければ別に痛くない。
もちろんアンナからの返事はまだ来ていないが、それも誤魔化した。
「一旦、良くて謹慎か降格……かしら。メイド長というプライドを振りかざすあの女が、見下していた人に見下されるのを見るのは楽しみだわ」
ヴィオレッタは声高らかに笑う。
あの日——クララは事前に、ヴィオレッタのエプロンのポケットにブローチを入れていたようだった。
ヴィオレッタがそれに気づく前に騒ぎ立て、濡れ衣を着せるという作戦だったに違いない。
しかしヴィオレッタは常にクララを注意深く観察していた。違和感のある動きや言動からすぐに気づくことができた。
床を掃除するふりをしてブローチを気付かれぬように裾へ引っ掛けお返しし、それから自分の部屋へブローチを取りに行き、名前を書いてポケットに入れた。
それからすぐに皆が収集され断罪ごっこが始まったわけだ。
ただ刺激できたらいいとは思っていたがナイジェルが入ってくるのは想定外だった。しかしそれがあまりにも良い方向へ進んだ。
そして、そのブローチの一件から更にエスカレートし、この様だ。
服は切り刻まれて、冷たい水を掛けられた。
まあ、暴力は張り手だけだったけれど。
ナイジェルが夜に庭園を歩く事は知っていた。
その時間に合わせるために、更に服を裂いたりして適当に時間を潰し、また水を被ってからフラフラと歩いた。
ナイジェルが自分に好意的なのは初めて合った時から感じ取れた。ナイジェルの瞳に下品な色は浮かんでいないが、ヴィオレッタのことを気にしているのはすぐに分かった。
ナイジェルの前で弱々しく涙を流せば、ヴィオレッタの味方に付くと確信した。
明日には、雨が降りそうだ。
ヴィオレッタは、切り裂かれた服をゴミ箱に投げ入れた。




