19.矛盾こそ、人である
――音が、消えた。
黒と蒼の界域、両者の境界が溶けて混じり合っていく。
天も地も、光も影も、もはや区別がつかない。
やがて、ゆっくりと黒炎が優勢を取り戻した。
氷の大地がひび割れ、蒼い結晶が音を立てて砕け落ちる。
漆黒の焔は塊となって、カリスを覆い尽くした。
ゼルドがゆっくりと歩みを進め、立ち止まる。
「終わりだ、カリス。お前の理想は――美しいだけで脆い」
カリスは膝をついていた。
蒼氷の剣は半ばから折れ、片腕を失っている。黒炎に焼かれ、自ら斬り落としたのだろう。
「そんな……カリス様が……」
「八闘剣が……まさかこんなこと……」
人間たちに絶望が広がった。
だがカリスの瞳だけは、曇っていない。
「……美しいだけで、脆いか。……その通りだ」
彼は血を吐きながらも、薄く笑った。
「だが――脆いからこそ、人はそれを守ろうとする」
ゼルドの眉がわずかに動く。
「……脆さは弱さだ。弱さは支配の対象に過ぎない」
「違う……ゼルド。お前が言う“平等な支配”は、確かに一つの秩序だ」
カリスはよろめきながら続ける。
「だが、そこに“選ぶ意志”がなければ、それはただの静止した世界だ」
剣を杖にして、ようやく立ち上がった。
「……正直、お前の言葉に、俺は揺らいだ。恐怖と希望の均衡……それも一つの答えとさえ思った。だがな、均衡のために心を縛るなら――人は、もはや人でなくなる」
ゼルドは一瞬、沈黙した。
黒炎の揺らぎが、わずかに弱まる。
「……くだらん理想だ。だが、貴様なりの覚悟は認めよう」
次の瞬間。カリスは最後の魔力を振り絞り――剣を地に突き立てた。
「……凍てろ、“砦”よ!」
砦全体が青白く光を放ち、瞬時に氷結する。
黒炎を拒む透明な氷壁がドーム状に広がり、内部の人々を護る。
――そしてカリスは叫んだ。
「兵士たちよ!……俺は黒炎のゼルドに敗れた!……民を率いて即座に退散せよ!一人でも多く救い、生き延びるのだ!」
状況を飲み込めずにいた兵士たちは、一瞬立ち尽くした後、涙を流し、凍らせながら、走り去っていく。
「貴様……まだそんな余力が――!」
ゼルドが眉をひそめた。
カリスは血を吐きながら、空を見上げた。
その視線は、どこか穏やかだった。
「この砦の民も、兵も……お前が焼くには惜しい。僅かな時間稼ぎだろうが……俺の、最後の義務だ」
「救い、か……。死に際まで矛盾を抱くとは」
ゼルドの声には、皮肉よりも――わずかな敬意があった。
カリスは微笑んだ。
「矛盾が人だ。お前のように完璧な怪物には……一生わからん」
「……カリス様ーーッ!」
遠くから女兵士マチルダの涙声が響く。
数秒の間を置き……黒炎が再び迸る。
氷の壁の内側で、人々が祈る声が聞こえた。
蒼氷が散り、カリスの姿がゆっくりと崩れ去っていく。
その中で、彼は最後に呟いた。
「……ゼルド。もしお前が、本当に"救い”を望むのなら……その鎖の先に、誰かの笑顔を見つけてくれ」
黒炎が吹き荒れ、彼の声はそこで途切れた。
静寂。
ゼルドはしばし黙してその場に立ち尽くす。
灰の中で、氷片が光を放ちながら舞っていた。
やがて彼は背を向け、低く呟いた。
「……見事だったよ。八闘剣カリス」
――砦の外。
氷壁の向こうで、若い女性がその光景を見つめていた。
桃色の髪、戦火の中でも曇らぬ瞳。
アリシア・エル・フィルディア。
砦に匿われていた、イシュタルの公女。
カリスの護るべき存在だった。
氷の結晶が頬をかすめ、涙と混じる。
彼女は唇を噛み、静かに呟いた。
「……あなたが守った人々の中に、私はいます。けれど、私は――あの魔物の言葉も否定し切れない……」
黒炎が夜を照らす。
その中心に立つゼルドを見つめながら、アリシアの心に一つの決意が芽生えた。
――ならば、この手で確かめよう。彼の“支配”が、本当に救いかどうかを。
風が止み、砦の夜が静かに終わりを迎えた。




