15.吉野家、イシュタルに建つ
昼下がりの市場に、これまで嗅いだことのない匂いが漂っていた。
煮込まれた肉と玉ねぎの甘い香り。
戦と血の匂いに慣れた魔物たちの鼻を容赦なく刺激する。
「……吉野家ってのは、これか」
角鬼族の戦士が訝しげに丼を受け取り、渋い顔のまま一口かき込んだ。
次の瞬間、その瞳が見開かれる。
「……旨ぇ……!?」
周囲の人間たちがどっと笑い声を上げ、戦士は慌てて顔を背けたが、耳まで真っ赤に染まっていた。
「なんだなんだ……?」
他の魔物も続々と列に加わり、牛丼の湯気に釣られていく。
戦火に荒れ果てたイシュタルは、いまゼルドの支配のもと、少しずつ“都市”の顔を取り戻しつつあった。
広場には屋台が並び、魔物も人間も同じ列に立つ。
魔物の大きな掌に人間の小さな銀貨が握られ、それが食料へと変わる。
腹を満たす――それだけの営みが、この街では奇跡に等しかった。
さらにゼルド肝入りの店も続々と姿を現している。
「日高屋」と墨書された暖簾の下では、中華鍋を振るう人間の料理人が豪快に餃子を焼いていた。
さらにもう一軒――「冥土Caffe」と書かれた怪しげな看板。
魔物も人間も「一体何の場だ?」と首を傾げている。
――その頃、ゼルドの棲家"黒曜殿"の広間。
玉座の横に立つのは、一人の小柄な女性。
柔らかな栗色の髪を後ろで結い、銀縁の眼鏡の奥に大きな青い瞳を光らせた。
ゼルドの秘書――エリス。
彼女はまだ若い人間の娘だが、落ち着いた所作で羊皮紙を整えると、朗々と声を張り上げた。
「これより、イシュタルにおける新たな組織体制を発表致します」
まずは「影盾」。
ゼルド直轄の治安組織であり、構成員はゼルドに心酔する魔物のみ。ラグも所属する。
指揮を任されたのは、鳥の風貌をした上級魔物――グレンダ。
「影盾は黒炎の掟を執行し、秩序を乱す者を即時に粛清します」
エリスの言葉に、魔物たちは背筋を伸ばし、人間たちは青ざめた。
次に「商務会」。
人間の商人ギルドが主体となり、魔物の護衛隊が連携。
門前での取引を許したことで、既に周辺都市から物資が流れ込んでいる。
会長を務めるのは、太鼓腹の商人――ダリオ。金勘定にうるさいが、街の繁栄が己の利益になることを理解している男だ。
続いて「工匠局」。
魔物の力と人間の技術を組み合わせて建築や水道を整える部署。
その局長に立つのは、岩巨人族の石工長――ザイオン。
石のような皮膚と三メートルを超える巨体を持ち、寡黙だが腕一本で十人分の石材を積み上げる。
さらに「学匠院」。
種族を問わず、子供たちに読み書きを教える場として設立される。
その長を務めるのは、白髪の老学者――ミルカス。かつて王国で学を教えていたが、戦火で居場所を失った人物だ。
ゼルドは魔法学校の設立まで見据えており、その布石とする考えだった。
最後に「評議院」。
魔物と人間の代表を選び、ゼルドの下で議事を行う。
魔物側の代表は、紅角族の戦士――ドルゴ。武骨だが実直で、同族からの信頼も厚い。
人間側の代表は、未亡人の女商人――マリア。柔和な笑みの裏で、誰よりも冷静に利を見極める。
もっとも決定権は全てゼルドにある。評議は“民意を聞くための装置”にすぎなかった。
エリスは一つ一つの発表を、無駄なく、しかし柔らかな言葉で噛み砕いて読み上げた。
その姿は、異端の都市イシュタルに不可欠な潤滑油だった。
広間の隅では、数体の魔物が低く囁き合っている。
「人間の女に読み上げさせるとは……」
「気に入らねぇ」
そこにゼルドがちらりと視線を向け、黒炎を瞬かせた瞬間、全員が黙り込んだ。
「……すごい。本当に、人間と魔物が同じ机で話し合っている」
市場に立った老女の言葉が、静かな驚きとなって広場を包む。
その横で魔物が気まずそうに鼻を鳴らし、黙って頷いた。
罵声もある。怯えもある。
だが同じ都市に生きる“利害”が、互いを繋ぎ止めていた。
ゼルドは高台からその光景を見下ろし、冷たい笑みを浮かべた。
「……完全に支配してやる。この都市から。この世界を――」
異端の都市イシュタル。
魔族ゼルドが築いたこの街は、恐怖と希望の両面を刻みながら、かつてない発展を遂げていくこととなる。




