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退院の日は、雲ひとつない快晴だった。
病院の玄関を出ると、街の匂いがした。アスファルトと排気ガスと、花の匂いがまじった、懐かしい空気。
母が用意してくれた新しいジャージは少しゆるくなっていて、2年の時間の重みを改めて実感させた。
「さあ、千聖。まずは好きなご飯にしましょうね。焼肉? お寿司? それとも家でハンバーグにする?」
「んー……ハンバーグ……かな」
本当は、食欲なんて全然ないんだけどな。
視界の隅。道路の端っこに、誰もいない空間に“誰か”が立っていた。
白い顔、空洞のような目。ずっとこっちを見ていた。
でも、それを指さしたって、母も父も「誰もいないじゃない」と返すだろう。もうわかってる。
退院しただけで、状況は何も変わってねぇ……
夕飯は本当にハンバーグだった。
ジューシーで、ちゃんとおいしいのに、口の奥に違和感が残る。
“あれ”の視線のせいだ。家の外にまで、まだいる。
部屋に戻っても、窓の外に黒い影が立っていた。
もう気配は日常に溶け込みすぎて、違和感というより「在るべきもの」みたいな顔をしている。
スマホを手に取る。ニュースアプリを開くと、不可解な事故の記事が目に入った。
《高校生、踏切で不自然な転落死 目撃者「線路上に“誰か”がいたような……」》
「……」
その瞬間、耳元で何かが囁いた。
「つぎは……おまえ……」
バッと振り返っても誰もいない。
千聖(――なんなんだよ、これ……!)
体が震えていた。まるで、世界が変質してしまったような、取り返しのつかない違和感。
そのとき、机の上の古びた鏡に、黒い影がぼんやり映った。
見覚えのある、病室にいた“それ”だった。
けれど今度は、ただの影ではない。
――そいつの背後に、さらに巨大な“何か”がいる。
その存在感に、千聖は思わず息を呑んだ。
ただ“見える”だけじゃない。“呼ばれて”いる。どこかへ。
千聖「なあ……俺、やっぱおかしくなったのか……?」
けれど誰も、答えてはくれなかった。