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 クリスマスの日はよく晴れていた。


 穏やかな冬空の下を、目的もなくただ歩く。次のバイト先も決まっていないので、時間はたくさんあった。


 家の中にいるような気分ではないので、足が向くままひたすらに歩き続ける。暖かな部屋で今日を過ごすことは、ワタヤに申し訳ないような気がした。


 一日中歩き通して、夕方ふらつく足で家に帰り、泥のように眠る。

 夢の中では、見たこともない遠い国のどこかが、ゆらゆらと燃えていた。炎に赤く照らされた人影の中に、ワタヤの顔を見つけて飛び起きる。


 かすかに震える手でスマートフォンをつかみ、インターネットのニュース記事を開いた。


 戦争。事故。詐欺。不正。盗難。暴行。殺人。性犯罪。非行。芸能スキャンダル。政治家の汚職。


 見慣れ過ぎた見出しが飽きもせず、同じ顔をしてつらつらと並ぶ。

 普段なら特に関心もないような記事にさえ、今日は心が騒いだ。


 世の中にあふれる悲劇や悪意たちを、指でなぞって画面の向こうに消してゆく。

 結局、二十五日のニュースの中に、ワタヤが言っていた国の名はなかった。




 ◆◆◆




 数日後。

 ワタヤの通帳とカードを手に、銀行へと向かう。


 バイト代は、どうせ払われていないに違いない。けれど、払われていないのなら、ワタヤがまだ生きている可能性もあるかもしれない。


 もし、金が振り込まれているなら、それはワタヤが死んだことを意味する。

 今さらどうにもならないことは理解していたが、俺は、ワタヤの死を確認するのが怖かった。


 ATMの前に立ち、画面を操作する。

 確かめるしかない。もし金が入っているなら、それをワタヤの「ばあちゃん」に届けなくてはいけないのだ。


 機械音が鳴り、ATMが通帳をはき出す。


 ワタヤの口座には、三十円が振り込まれていた。

 振込依頼人名は、〈クロス サンタ〉。


「―――」


 こんなにも軽くて深い悪意を見たのははじめてだった。


 細く長い針のような悪意が、胸の肉の一番柔らかいところを、ゆっくりと刺していく。

 ずぶずぶと沈む針先の感覚に、心臓が抉られるように熱い。


 サンタクロースだと? ふざけんなよ、糞が。


 怒りのままに、三十円を口座から引き出す。

 引き出した金を握りしめ、続けて自分のキャッシュカードをATMへつっこんだ。叩きつけるように暗証番号を打ち、上限いっぱいの金を引き出す。


 機械からはき出された札束をポケットに押し込んで、銀行を出た。

 歩きながら、頭は煮えそうなほどにぐちゃぐちゃだった。


 わざわざ手数料まで払って、三十円振り込んだってのか?

 馬鹿にしてやがる。罠にかかった間抜けを捕まえて爆弾くくりつけて。その上、死んだやつを嗤って、仲間内で楽しんでるってわけだ。リーダーとやらは、さぞかしご機嫌なんだろうな。


「ゼロが五個足りねえだろうが、糞野郎」


 白い息を見上げながら、冬の空にひとり毒づく。


 わかっていた。

 この世界にはどうしようもないほどにクソなやつが存在していて、少しでも隙を見せれば、あっという間に喰いものにされてしまう。


 そいつらは他人を見下して、嘲笑って、搾取して。そうして踏み潰した死体の上で、偉そうにふんぞり返って笑っている。


 そんな勝手を許すなと主張する連中も、一度失敗して悪事に放り込まれた人間を見つけたら、正義ヅラして声高に騒ぐんだ。


 自己責任自己責任自己責任、ジコセキニン。


 こんなん、真面目に生きる価値なんかねえよ。なあワタヤ、そうだろ?

 お前だって、さっさと逃げちまえばよかったんだ。

 あの居酒屋の店長みたいに、他人のことなんかほっといてさ。


 てめえさえよけりゃいいんだよ、どうせいつかはみんな死ぬんだ。好き勝手生きたって、文句を言われる筋合いはない。


 ああ、ちくしょう。胸糞悪い。


 ずるずると文句を垂れながら、近くのコンビニへと向かう。茶封筒をレジに出して、ついでにピースを一箱買った。


 コンビニの外に灰皿を見つけて、すぐにタバコに火をつける。

 風向きが急に変わったせいで、煙が目にしみた。


 ポケットから札束と小銭を取り出し、茶封筒に包む。封筒の奥で、三十円がちゃりんと音を立てた。


 煙を深く吸い込んで、吐き出す。吸殻を灰皿に投げ捨てて、くしゃくしゃと髪をかき回した。


 深呼吸ひとつで気持ちを落ち着けて、再び歩き出す。

 やることはまだ終わっていなかった。


 通帳にはさまれた地図を頼りに、一軒の家へとたどり着く。

 インターフォンを鳴らすと、しばらくしてやわらかな声が応えた。ゆっくりとドアが開いて、小柄な老婦人が顔を出す。上品で優しそうな女性だ。この人が、ワタヤの「ばあちゃん」だろう。


「はい、どちら様?」


 のんびりとした口調で、老人が訊ねた。用意していた言葉が出てこなくて、慌てて茶封筒をつき出す。


「ワタヤ、くんに頼まれて。あの、これ、こちらの家の方に渡して欲しいって」

「あら、なあに?」

「手術代です。ワタヤくんから、貴女に」

「まあ、どちらのワタヤくんかしらね」


 不思議そうに首を傾げた老人は、俺を見てにこりと笑った。


「よかったらあがっていって。お茶を淹れたところなのよ。今日は寒いでしょう? あたたまっていくといいわ」


 穏やかな笑顔に、胸の奥がしんと冷える。


「いえ、遠慮します。その場所は、俺のじゃ、ないんで」


 俺が断ると、老人は悲しそうな顔をした。次いで、手にした茶封筒を見て、「あら? どうしたのかしら、これ」と首を傾げる。それから俺を見上げて、嬉しそうににっこりと笑った。


「あら、こんにちは。あなた、お名前は?」


 優しげなその笑みに、俺も無理やりに笑顔を作る。


「そのお金で、美味いものでも食べてください。できれば手術を受けてほしいです。少なくて申し訳ないですけど。お願いします」




 ◆◆◆




 公園のベンチで、缶コーヒーを開ける。冷たいコーヒーを傾けて、一気に半分ほど飲み込んだ。琥珀色の液体が喉を通り、腹の中へと下りてくる。急な冷たさに驚いた胃袋が、ひくりと動いた。


 缶を持つ指先は冷え切って、感覚が鈍い。かじかむ指に息を吹きかけながら、この感覚すら失ってしまったワタヤのことを考えた。


 いっそ全てあいつの悪ふざけで、タチの悪い冗談ならいいのにと思う。それくらいにワタヤの話はあまりにも突飛で、現実感が希薄だった。


 けれど、テレビとスマートフォンの向こうにある世界は、今、俺が生きている現実と確かに繋がっている。

 明日、腹に爆弾をかかえて途方に暮れるのは、俺かもしれないのだ。


 今この時も、どこか遠くの国では火が燃えている。

 ゆらゆらと広がる炎に焼かれるのは、次は俺たちの番かもしれない。


 ワタヤのことを他人事だと切り捨てるのは容易い。むしろ、その方が気楽に生きられる。


 あいつが馬鹿だったんだ。ちょっと考えればわかるはずなのに。


 可哀想に、運が悪かったんだよ。


 逃げようと思えば逃げられたんだ。結局は自分で選んだんだろ?


 あふれる言葉は蜘蛛の糸のように絡みつき、誰もが自由を奪われて、互いに身動きが取れないと叫ぶ。

 入り組んだ正義の中でそれぞれが言いたいことを言うだけの、単純で複雑な世界。

 誰もが口を動かすばかりで、他人の話なんかこれっぽっちも聞いちゃいない。


 どこまでも、ばらばらな、世界。


 なあ、ワタヤ。

 やっぱお前、死ぬべきじゃなかったよ。


 無駄でも迷惑でも汚くても、なんでもいいから生きてて欲しかった。


 でもこれも、俺の勝手な正義なんだよな。

 引き止めなかったくせに今さらかよって思ってんだろ?


 今さらだよ。悪いかよ。

 でも、今、虚しくて仕方ねえんだ。

 全部を他人や社会のせいにして、悲劇の主人公ぶってないとやってらんねえくらいに。


 ごめん、ワタヤ。ごめんな。


 ベンチに座り込み、いるはずのないワタヤに語りかける。

 感傷に浸っている姿は、下手くそな一人芝居の舞台のようで、我ながら滑稽だった。


 ああそうだよ、俺も、ばらばらのひとつだ。くそったれ。


 どれくらいの時間そうしていただろうか。

 いつの間にか、陽は遠く西の空に傾いていた。


 太陽が砕け散ったような赤が、一瞬、強く世界を照らす。

 その美しさに、全てを忘れて息を呑んだ。


 美しさと汚さ。その両方が一度に押し寄せて、不安定さに心が騒めく。曖昧な世界の輪郭を掴むように手を動かすと、コートの内側にある何かが指先をかすめた。


 ポケットを探り、タバコを取り出す。一本しか減っていないピースの箱が、他人行儀な目で俺を見上げていた。


「長生きしてくださいね」と、ワタヤは言った。


 あの日、交わした言葉のひとつひとつが、今になって重さを増す。

 重力を感じさせるようなその言葉は、まるで呪いのように俺を捉えた。


 いいさ。コーヒーの礼だ。お前の最後の頼みなら、呪いでもなんでも受けてやるよ。


 立ち上がった拍子に、軽くよろけた。少し痺れた足に力を込めて、強く地面を踏みしめる。


 コーヒーを飲み干し、空になった缶とタバコを、まとめてゴミ箱に放り込んだ。


 長生きするには、金が必要だ。


「バイト探すか」


 呟いて、歩き出す。


 燃えるような夕焼けが、赤く空を染めていた。

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