母とのこと
「……ですよね?菜美子さん」
不意に治弥に名前を呼ばれる。
「え? ごめんなさい。聞いてませんでした」
「利弥兄さんのことですよ。今朝、鉢合わせしたんですよね。びっくりしましたよね?」
「はい。でも、そんなに女性に対してだらしないんですか?」
菜美子が治弥に聞くと、信治が先に答えた。
「ああ……。アイツは昔から1人の女を真剣に好きになれないんですよ」
「昔から?」
「俺と治弥と利弥さんは幼なじみだから……。女は皆おんなじ。ちょっと優しくすれば簡単に好きになるなんて、言ってたんですよ」
げんなりとした顔で信治は言う。
「……何か、寂しいですね。そういう考え方」
「ですよね。僕もそう思います。兄さんは元々はそんな人じゃなかったんです。家の中で色々あって、誤解からどんどんああいう風に……。だから、菜美子さん。おかしな話かもしれないですけど、根は悪い人じゃないんですよ。女性にだらしがない以外は」
「はい。直ると良いですね。利弥さんのそういう所」
「ありがとうございます」と治弥は微笑んだ。
その後、集中して描いているうちに気が付くと数時間たち、夕日が傾き始めている。
「そろそろ帰りますか?」と治弥が声をかける。
「そうですね」と言いながら菜美子は立ち上がる。
「2人共帰るのか?」
「うん、菜美子さんもいるし、早めに帰るよ」
「そうか。またな、治弥と菜美子さん」
「うん、またね」
「はい、また。さようなら」
菜美子と治弥は夕日を背にしながら、帰って行った。
家へ着くと利弥も帰って来ていた。菜美子達を見ると、歪んだ笑顔を向けた。
「治弥。この時間まで絵を描いていたのか?」
「はい」
「菜美子ちゃんも?」
「はい」
「ふぅん。治弥さぁ、いつまで絵を続けるんだ?」
「いつまでって。ずっと続けますよ」
「甘いな、お前は」
利弥はため息混じりに言う。
「誰もが父さんみたいになれる訳じゃないんだよ」
「知ってますよ」
2人のやり取りを前に菜美子は、自分のことを思い出していた。進路を母親と話した時のことを。
その日は部活で帰りが少し遅くなってしまった。
「ただいま〜!」
「お帰り」と祖母のハナが出てきた。
「ただいま。おばあちゃん」
出てきたのが祖母で少しほっとするのもつかの間、母が現れた。
「お帰りなさい。菜美子。今日も部活だったのね?」
菜美子は少し棘のある言い方にムッとする。
――そんな言い方しなくたって!
「ちょっと、話があるからいらっしゃい」
「はい」
――きっと、絵のことなんだろうな……。
菜美子は母に付いて行き部屋に入り、ドアを閉める。
テーブルごしに向かい合って座ると、母が口を開いた。