ゲーテの「ファウスト」
ゲーテの「ファウスト二部」を読み返している。「ファウスト」と言えば、非常に広大な世界を扱った作品で、難解で知られている。ゲーテ自身も、生前にはこの作品は理解されないだろうと考え、封印を施したぐらいだ。
私は、ゲーテよりもシェイクスピアの方が優れていると考える者だ。ゲーテ自身も、「シェイクスピアには叶わない」という事を言っている。もちろん、このレベルの天才を並べて優劣を付けるのは馬鹿らしい事には違いないが、それは私自身の思想とも関わってくるのであえて言っている。
「ファウスト」を読んで感じるのは、ゲーテに近いのは、シェイクスピアではなく、ダンテだという事だ。ゲーテはダンテを尊敬していたらしい。主人公のファウストは、悪魔メフィストフェレスに率いられる形で世界の様々な諸相を見る。この、世界の様々な層をくぐらせるという発想が、どちらかと言えば、ダンテに近い。
世界の様々な諸相を見せるのは、ゲーテの個性に叶ったものだったに違いない。ゲーテは倦まず弛まず、己を完成させようと努力していた。ゲーテは科学にも手を出しているし、植物研究、鉱物研究など、様々なジャンルに進出していった。それは、ゲーテの個性と一致するものだった。ゲーテは世界の有様を自らの知性によってまとめ上げようとしていた。近代の偉大な総合知がゲーテその人だった。
ゲーテはそれだけではなく、政治家でもあった。社交家でもあり、恋愛も多かった。要するに、彼は行動家でもあった。
ゲーテとシェイクスピアの違いを見るには、ゲーテが自伝を書いた事を思えば足りる。ゲーテは自伝を書き、シェイクスピアは書かなかった。シェイクスピアの魂の全ては、彼の作った作品に全て封入されている。一方で、ゲーテの諸作品は、ゲーテという一人の存在を思わずには読む事ができない。…これはジイドが言っていた事で、私もその通りだと思う。
ゲーテの哲学の核にあるのは、「エンテレヒー」というものだ。これは魂とか、霊魂とか訳せばいいのだろうか。いずれにしろ、エンテレヒーが絶えず努力し、前進し続ける事。それをゲーテはいつも念頭に置いていた。
「ファウスト」もその哲学で書かれている。「ファウスト二部」のラストにこんなセリフがある。
「誰にせよ、つねに高きをもとめて努めはげむ者を、私たちは救うことができます」
(「ファウスト二部」 山下肇訳)
これは天使のセリフだが、ゲーテが求めて止まなかったのは、このように前進し続ける事、絶えず、上方を求めて飛び続ける事だった。ゲーテは、無限の精神世界を求めて歩み続けたが、現代の我々にとっては、ゲーテのような人が進んでいこうとする空間そのものが失われている。
それは、我々の時代の宿命であり、マイネッケのような古きを愛する天才が「ゲーテ時代に帰れ!」といくら叫んでも、ゲーテの世界が戻ってくる事は決してない。ゲーテは歴史の中の一回きりの現象だった。
※
「ファウスト」の最後にはもう一つ、重要な哲学が語られている。私は、こちらの方が大切だと思う。
「すべての移ろいやすきものはおよそ比喩なるにほかならず。
足らずしておわるものも、ここでは実現となりつくす。」
「移ろいやすきもの」とは、東洋的に言えば、無常観を指している。我々は諸々のものを、失われたり、現れたりするものと感じる。人の死もまた、無常(=常では無い)の一つだ。東洋哲学は、無常観を見つめる点で終わり、その先の絶対的存在を認めない。
キリスト教は、無常観の上に、全く変わる事のない、永久的な存在である「神」を見る。神の絶対存在に対して、相対存在としての事物があるという考え方だ。この分割ははっきりしている。
一方で、ゲーテはキリスト教的な理解を取りながらも、微妙に違う考え方を取っている。ゲーテは晩年、東洋の文物に興味を示したので、その影響もあるのだろう。
世界の移ろってゆくものが全て比喩であるというのは、その背後には本質があるという事を意味する。この本質を神とか、天上などと考えても良い。
何故、私が唐突に「本質」と言ったかと言えば、ゲーテの植物研究を思い出していたからだ。ゲーテは独自に植物研究をしており、植物のその時々の成長・変化の背後に「原植物」とでもいうものを見つけた。これは理念としての植物であり、実際の植物は、その理念が、現実に現象する形で現れてくる。ゲーテはそう考えた。
この考え方は先の考え方に近い。つまり、移ろってゆくものはその背後に本質を隠しており、本質の比喩として現実存在が現れるというものだ。
ただ、ゲーテの思考は近代人らしく、動的でもある。つまり、移ろってゆくものはただ虚しいだけの存在ではない。「絶えず努め励む者を我らは救う事ができます」 要するに、現実存在である我々は、静止していて、いきなり神の恩寵に預かれる存在ではない。
我々の日々の刻苦が、その延長としての神の恩寵を可能にするのだ、という考え方だ。それは自然にも応用され、自然もまた日々、どこかへ向かって運動している。世界は「無常」の嵐に耐えるだけの静的なものではない。
これはゲーテが、近代的な哲学と、古代の哲学を融和しようとして現れた結果だと言えるだろう。
だから「ファウスト」には、ゲーテらしい楽観的な見方が底にある。ショーペンハウアーもまた、世界の現象の背後に、それらを貫く一つの本質があると見て取ったが、ショーペンハウアーの場合は彼の性格を反映して、厭世的な哲学だった。ゲーテはショーペンハウアーと近い哲学を持ちながらも、前進して進むものを救う事ができる、という楽観的な見方になっている。
もっとも、ゲーテが本当に楽観的だったかどうかは疑問である。私の記憶では、ゲーテは自らの「ファウスト」を「喜劇」と呼んでいた。どうしてゲーテは自らの悲劇を喜劇と呼んだのか。
これは私の推測だが、ゲーテ本人はあくまでも悩める一人の男であり、もちろん、我々とは格が違う大天才だったが、それでも彼が苦悩と懐疑に満ちた人生を送ったのはほぼ間違いない。
にも関わらず、ゲーテは畢生の大作「ファウスト」の終わりを、救済のエンディングにしている。ゲーテ自身を反映していると言ってもいいファウストは、最後には聖母に召し上げられ、天上に連れて行かれる。ファウストは、作中では様々な罪を犯している。それにも関わらず、彼は救われるのである。
ゲーテ本人は、しかし、決して救われる事はなかった。救われる事のなかった男が、救われる男の話を書いた。ゲーテの理性は、このアイロニカルな関係をはっきり捉えていたはずだ。
ゲーテにとって「ファウスト」という作品は可笑しいものだった。なぜなら、救われない男が、救われる男の話を精魂込めて作り上げたからだ。だからゲーテは「ファウスト」を喜劇と呼んだのではないか。どこか可笑しい、笑える作品だと。
しかしこの関係は逆に考える事もできる。「ファウスト」からゲーテを見てみるのだ。作品の内部では、現に救いはあり、絶えず努め励む者は天上に連れて行かれ、救済される。救済が現に存在するにも関わらず、実際に「努め励む者」だったゲーテという男は、自らが救済されると確信できずに、いつまでも懐疑と不安の中にいる。彼は苦しんでいる。救済はすぐそこにあるのに。こう考えてみると、可笑しいのは作品ではなく、ゲーテの方ではないか。
もちろん、このような思考はただ考えてみるだけだ。実際がどうだったかは、わからない。
ただ私は、ゲーテという大天才が「ファウスト」という作品を、畢生の大作としてまとめあげるにあたって、作品の最後に、救済という名の嘘を一匙混ぜ込んでおいた事に不思議な感慨を覚えるのだ。それが、キリスト教的枠組みを用いて行われたという事は、理念や精神といったものを愛する近代人が思っていたよりも、重大な事だったのかもしれない。
…現代では、ゲーテがやったような偉大な総合は不可能になっている。そもそも、世界が生き生きとしているものではなくなってしまい、どこも人工的であって、死んだようになっている。人間の努力はもう、無限の精神世界には向けられていない。我々はゲーテの「ファウスト」を二度と手の届かない、どこか懐かしい空間であるように感じて読む。
その作品を閉じるのに使われた最後の味付けとしての「救済」は、ゲーテ本人が本当に掴んだものか、それとも、ゲーテが自らの人生に終止符を打つ際につかざるを得なかった嘘なのか、そのどちらかを判別する方法は残ってはいない。ただ、はっきりわかるのは、あのような総合、あのような美しい終末は現在ではもう不可能になっているという事だけだ。