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ジェームズ探偵との邂逅

我々はそこを棺と呼んでいた___。

1975年3月2日、人類は敗北を迎えた。かつて他の種族を圧倒し栄えた面影は闇に飲まれ、貶めた者たちの、暴虐を戒める報復の戦は深い爪痕を残し幕を閉じた。

 

 終戦3日前。

 グスタフライン別名”棺”では、降り注ぐ爆雷が塹壕を砕き、ある者は熱線に蒸発し、またある者は爆裂により体が四散、そして残された多くの者が塹壕と共に更地へと帰った。幾重にも掘られたその脈は、人類に残された半島程の小さな領土を守るべく、大陸とを分断するように続いていたが、魔族からの度重なる攻勢により、前線は崩壊を繰り返し、残すはグスタフラインただ1つとなった。

 「お前も吸うか」そう簡素な巻きたばこを差し出したのは、シュレーゲルだった。右手に巻く包帯には血と泥が滲み、指先からは骨が見えていた。彼が差し出した紙たばこはレーションの梱包紙を巻いただけの物だった。同じように彼が咥えていたのも、火もついていないただの紙だった。壊死した腕の毒から、右目は濁り、左目も虚ろに遠くを眺めていた。ここにはもう何もなかった、壊死した腕を切り落とすナイフも、自決の為の弾丸も。

 「あぁ、ありがとう。お前はいつも優しいな」たばこを受け取り、ジッポをこする。火花が小さく散り、たばこを咥え息を吸う。レーションの香りを微かに口に感じながら塹壕に寄りかかり空を眺める。塹壕の空は綺麗だった。ほんの十数年ほど前、まだ七つだった時、空はまだ明かりに照らされていた。

 人類はその昔、他種族と共存の道を歩んでいた。獣族に技術を、翼族には力を、精霊種には資源を、巨人族には工芸を。人間はそれぞれの種族と互いを補完することで、魔力が無いながらも、大陸では一定の地位を獲得し、繁栄していた。しかしながら科学の発現と進歩は人間と共にいびつな破壊への道をたどった。充足の為に、消えない明かりを手にし、栄える為、狼族のような素早さを手に入れ、安寧の為、魔術のように火を放ち、夢を叶え、翼族のように空を飛び、そして、略奪の為戦争をした。

 そんな昔話を思い出していた。「なぁ、俺たちどうなるんだろうな」問いかけは、誰が答えるでも無く夜空へと吸い込まれていった。翌朝彼は起きなかった。たばこを咥えたまま、隣の死体にもたれかかるようにして死んでいた。うなだれた左手には、ロケットが握られていた。ルーシーと書かれた肖像は以前彼が自慢げに見せてきた妹の写真。6歳ほどで彼と同じ赤髪の似合う子だった。

 戦友が死んだことに悲しみの類は湧いてこなかった。塹壕を埋めつくす死屍は、生きていることが異常だと思わせるには十分な量だった。積まれた死体にはタグの回収さえされていない者もいた。そんな場所で軽くなりすぎた死に、私は少し悲しくなった。せめて死んだ者くらいは安らかに眠ってくれ。そんな思いが”棺”には込められていた。

 それから三日後、戦争は終結した。人類は無条件降伏を受諾し、我々は故郷を失った。残された1万程度の人類は、他種族間の事前の取り決めにより、永続的な戦争放棄と秘匿されていた科学技術の公開が命じられた。また、垣根を残さぬよう、一部司令官を除く殆どの人類が、特に呵責にあうこともなく、基本的人権の保障のもとに世界へと解き放たれた。彼らにとって魔法を持たぬ個の人間は一切の恐怖となりえなかった、故に衰弱した種を追い立てる事はしなかった。

 

 それから一年が流れ、舞台は大陸南部、沿岸の街”ジュラ”の小さな探偵事務所へと移る。

工業、商業共に栄え、数多の種族が混ざりあうこの地では、人間の探偵は重宝されていた。どの種族にも加担せず、魔法も使えないが、知恵は働く。この町を尋ねる者は、かつての因縁よりも、今の利益を考えていた。だからこそ、ここには多くの種族が訪れる。それはまた人間も例外では無かった。

 事務所の外、二階へ上る木階段が、軽くきしむ音を立てる。戸の前で止まった影は、一つ大きな息を吸い、ノブに手を掛けた。

「こちらにジェームズさんはいらっしゃいますか」戸を閉めてか丁寧に尋ねたのは、黒髪の女性だった。

「コーヒー、それとも紅茶?」形式的な質問に返答はしなかった。ジェームズ探偵事務所の中にいるジェームズらしき人間が、ジェムズでも、シェームズでもある可能性は極めて低い。

 「いえ、どちらも結構です、それよりあの…」そう続けながらキッチンを覗き込む彼女を尻目に、カップを二つとミルクピッチャーをテーブルに置きソファーへ腰掛ける。

「どうぞお座りください」彼女は促されるままゆっくりとした手つきでブラケットをソファーに掛け、浅く腰を下す。

「本日はジェムズ探偵事務所にどのようなご用件で?」深くソファに腰掛け、屈み気味に砂糖を二つ入れる。彼女が問いに答える前に、自分の紅茶にしかミルクを先入れしていない事を告げる。「好みが分かりませんでしたので」彼女はやや後悔の顔を浮かべながら「ジェムズさんでしたか、失礼しました。」と軽く頭を下げた。「いや、謝る必要はない、俺の名も事務所もジェームズであっている、ジェムズはこっちの話だ。ところで依頼の内容は?」砂糖が溶けた頃合いをみて、口をつける。

 「私の自殺場所を見つけて欲しい」彼女はいたって真面目な顔でそう告げた。口に含んだ紅茶がカップに戻り、泡が付く。そのまま後ろで煌々と焚く暖炉に中身を撒き、向返る。「死に場所だぁ?なに餓鬼がませた事言ってんだ、お前には十年は早いは!」口をついて出た言葉がこれとは我ながらにして、滑稽であった。日頃から無駄な自己嫌悪は避けるたちだったが、自分のほんの三つ四つ下の少女に、餓鬼がませてて十年早いは、十年早かった。十年後も年の差は同じだが。

「何故でしょうか、お金は払います。どうしてもこの地で死ななくてはいけない理由があるのです。ただ、大家さんに良くしていただいてるので、自宅では死ねませんし、木で首を釣ろうにも、公園でやれば子供や地域の方に迷惑が掛かります。人間の身では銃の類も手に入りません。入水も考えましたが、苦しむ度胸もないので、今に至るのです。ですからお願いです、人に迷惑を掛けずひっそりと苦しまずに死ぬ方法を見つけて欲しいのです。」卓に手を付き前にのめる彼女は、目をうるませ必死に訴えていたが、すぐに手を引き体を起こすと今度は「やはり、駄目なのでしょうか…」と呟いたきり、動かなくなった。

 なんとも厄介な依頼だ、赤の他人に死地と許可を求めるとは、巷で流行るクスリでもたしなんでいるのかと一瞬は思ったが、肌は白いものの不健康の部類には入らず、歯も綺麗で、爪は先に黒いシミのようなものがついていたが、患者特有の縦線も無かった。何より、尋ねてきたときはいたって一般的、というよりも疲れ気味ではあったが身についた所作は、高貴な出をうかがわせた。服も新しくはないが上質なものだった。そのような人間がクスリを、まして巷の粗悪品を買うようには見えなかった。だからこう尋ねざるを得ない。「あんた、何故死にたい」探偵の仕事は、依頼主の問題を解決することだ。

「私は生きる意味を失ってしまったのです、この世で最も大切な人が亡くなった事を2月ほど前に知りました。思えばあの時死んでしまえば良かったのです、そうすれば今こんなに苦しむことも無かったのに…」再びこみ上げる涙をハンカチで軽く拭い、咽びながら声にならない謝罪をした。

「最も大切な人ですか…その方との関係性を伺っても?夫や恋人、或いは他の親族でしょうか…」ハンカチを鞄へしまい直すと、震える唇で話始める。「はい、私の兄です」そういうと胸のペンダントを外し、ロケットを開く。「この人が私の兄です。戦争が終結してから連絡がとれず、やっとの思いで探し出した名前も、すでに墓石に刻まれるのみでした」渡された写真は、戦友シュレーゲルの若き頃だった。声にならない驚きを上げ、ロケットを返す。 封じ込めたはずの腐臭漂う戦場の記憶が蘇る。部屋に漂う茶の煙を逃がすように手は窓へ伸びていた。腐りきった指が、レーションの甘い匂いが、耐えきれないほどに胃を刺激する。務めて平然にふるまおうと、強く飲み込み、声を出す「すまないが、今日は帰ってくれ、続きは明日聞く」彼女は怪訝な表情を浮かべながらも、何かを察するように静かに出ていった。

 翌朝、カーテンを避けて差し込む光に目が覚める。ソファーで横になる体を起こすと、鈍い痛みが頭で脈打つ。テーブルには覚えの無い酒瓶がいくつも並べられていた。大きくため息をつき、水を取りに立ち上がる。汚染された水道水に浄化結晶を一つ入れ飲み干す。シンクに腰掛け二杯目を飲み干し、昨日の自分を憐れむ。「ウィスキーは割って飲めよ」思わず声を出したのは、テーブルにグラスが無かったからだった。二度寝でもしようかと再びソファに腰掛けると、昨夜訪れた依頼人のブラケットが目に入る。どうやら急いで帰らせたため、忘れていった様だった。そのうち取りに来るだろうと、横になり目をつぶるが、さえ始めた脳が、悪戯に記憶を思い出させるだけだった。諦めて起き上がり、換気の為と窓を開けると、冬の乾いた風が流れ込んでくる。昼下がりの喧騒は、窓から先に見える魔力結晶工場が今日も元気に稼働している印だった、以前はその土地の一部が人間の集団埋葬地だったが、今は見る影も無く工場が立ち並ぶ。この町の主要産業は、さまざまな魔力結晶を作り、それを運ぶことだった。水に入れた浄化結晶も、この産業によって汚れた水を飲めるものにする為だった。

 熱が抜け頭痛が軽くなった頃、再び階段をのぼる音が鳴る、昨日よりも少し軽く、駆けあがる音だった。ノックも無しに勢いよく戸が開かれる。息を切らしながら膝に手をついていたのは、灰色のフードをかぶったエルフだった。特有の薄緑の長髪をフードからのぞかせている。ソファーに掛かるブラケットを一瞥した後、こちらを睨みつけ、無言のまま右手に小太刀を持つ。片足を引き重心を落とすと、床を蹴り、首に向かい小太刀を突く。咄嗟に刃を持つ手を受け流すように払う。「死ね!」フードの声は女性の物だった。声と共に、もう一方の手で注射器を腕に差し込み、中身を押し込むと、接近した要領で距離をとる。「空気注射よ、死ぬまでは時間があるは、エリィはどこ、話しなさい!」そういうと再び小太刀を構え直す。

 「はぁ、また話を聞かない手合いか」この街では頭をまともに使わない奴が多い、それはたいていの場合、彼らに力があるからだ。だが、そんな場所で私が探偵を出来ているのは、私が単に頭が回るからでは無い、それ以前に強いのだ。

 丁寧に刺された注射の後を軽く食いちぎり、空気を抜き切る。応急処置として、浄化結晶を砕き傷に塗りつける。血こそ流れてはいるが、仮に毒があっても全身に回る前であれば、これ一つでだいたい解毒が出来る。「っく…貴様やりてか、次は仕留める。」そう言うと目をつぶり、手を組んで呪文を唱え始める。

 またしてもこの展開かと思いながら、詠唱する元に近寄ると、組んだ手を上からしっかりと握りそのまま持ち上げる。魔法を神聖視する輩は、呪文を唱えたり、手を組んだり、果ては魔法陣を書き始めたりと間抜けなのが多い。「ふぇ?」と間抜けな声を出すと、暫く抵抗するでも無く、ぶら下がったままあっけにとられる。自身の状況に気付きぶら下がったまま蹴りつけようと、後ろに勢いをつける。体が最高位に達した瞬間に持ち上げていた手をぱっと離すと、そのまま顔から地面に落ちた。再び暴れることが無いよう手近な布で腕を縛り、魔結晶を握りこませる。こうしておくと、魔力の大部分を手から使役するエルフは、結晶に魔力を吸い取られ、特に何も出来なくなる。

 「お前は昨日来た子の知り合いなんだろ、俺は別にどこにもやってないぞ、そのブラケットだって忘れもんだしな」ブラケットを抱え込むようにして座わったまま睨みつけてくる。「そんなはずない、このブラケットはずっと大切にしてた、お兄様の代わりだから、会うまでは手放せないって!」「会うまでは手放せないって…。昨日あいつが家に帰ったかわかるか」嫌な予感がよぎる。「帰っては来ました、でも今朝、置手紙を残してどこかへ行ってしまいました。それとあいつではありません、エリィゼ様です。」予感が現実味を帯びる。「置手紙があるなら俺が攫った訳ないだろ、その手紙にはなんて書いてあった」話をしながら手の布と結晶を取る。「あなたには関係ありません」そう言って縛られていた手をさする。「ああ、俺には関係ない、だがお前にはあるんだろ。彼女は昨日俺に死に場所を尋ねに来たんだ」唇までもが血を引き、肩を震わせながら叫ぶ。「何で止めなかったのよ!あんたのせいで…あんたのせいでエリィが!」掴みかかろうとする腕は先ほどと違い弱々しい物だった。「いいや、恐らくはまだ死んでない」「なんであんたにそんなことがわかるのよ…魔法も使えないくせに」胸元で泣きじゃくるのをソファーへと再び座らせ話を続ける「この町で日中人目に突かないところはそうない。それに、翌日に死体が見つかるような事も避けるはずだ。彼女は元々赤髪だったはずだ、染めたのは最近か?」その問いにうなだれたまま言葉を返す。「なんでそれを知ってるよ、あんた何者よ」「俺はただの探偵だ、昨日見たとき、指先に黒いシミがついていた、それに昔一度見たことがある」「人間だったらそんなこともあるのかしらね、あれしかいないんだもの。理由は聞かなかったけれど、髪を染めたのは赤髪が、”暗き杜”のようなカルトどもに攫われやすいからじゃないかしら」「暗き杜か、奴らの活動域はもっと南の工業地帯だ、身なりからして、工業地帯で働くようには見えなかったが」「ええ、お金は私が治癒術師として稼いでいますので、エリィが特に働いているわけではありません、ですが以前一度そのあたりに行きました。その時に襲われたので髪を染めたのだと思っていました。私がいれば敵ではありませんが」「何故そこへ行ったのか分かるか?」「その時は、魔力貯蔵槽を見たいと言っていました。何故見たかったのかは知りませんが、肺が弱いのにあのようなところへ…」「魔力貯蔵槽…。仮にだ、もし仮にその槽に魔法の使えない人間が落ちたらどうなる」「それは、恐らく溶けて…無くなる」「急ぐぞ、あそこが閉まるのは日没だ。そこの鞄を持て、お前は助手だ、ついて来い。そうだ名前は?」「私はカトレアよ、それとあんたの助手なんかやらないは!」内心でため息をつきつつ、冷たくあしらう「そうか、なら要らん、好きにしろ」立ち上がり、ソファーに隠した銃を取り出してから、トレンチコートを羽織る。鞄を掴もうとするとその前にカトレアの手が伸びる。「わ、分かったわ、助手でも荷物持ちでもなんでもするから、私を連れてって!」「ああ勿論だ、よろしく助手」

 こうして探偵は事件へと向かう。



 竜車に揺られ、工業地帯へと足を踏み入れる。事務所のある沿岸部に比べ空気の濁りが気になる。すれ違うものは皆一様に口元を覆う布を巻いていた。竜車の御者も逃げるように竜を走らせる。羽のないでかいトカゲを竜と言い張るのは、この町の観光業の見栄っ張りだった。

 地図を開き、幾つか槽にあたりをつける。目ぼしいのは、以前行った事があると言っていた五、八番槽、比較的沿岸よりの治安が良い七番槽、そして現在工事中の四番槽。「時間的に行けるのは一つだ。なにか他に情報は無いか?」逡巡を抜けると口を開く。「以前来たときは、しきりに足元を確認していました。足が悪いかとお尋ねしましたが、何か物思いに耽るばかりで、その後も結局はぐらかされてしまいました。後は特に…」「足元か。そういえば今朝の置手紙はどうだった?」「自由に生きなさいと…。アゲリの紅茶の香りだけを残してどこかへ行ってしまったのです。」「アゲリの紅茶か、俺が出したのと同じだが、彼女は口をつけなかったな。さっき聞きそびれたが、魔力槽に落ちてから体が溶けるまでにどれだけ掛かるんだ?」「分かりません、濃度や体の状態にもよりますが、気はすぐに失います。それと溶けるというよりは分解されるのが正しいかもしれません。ゆっくりと分解はされますが、人間と魔力とが混じりあうことはありません」「そうか、時間が掛かるなら、工事中の四番槽は避けるはずだな。万が一にも翌朝まで溶けずに残ったら、工事が中断される。他者に迷惑を掛ける事には過敏になっていたからな。すると、残るは沿岸よりの七番、以前に出向いた五番、八番。だがわざわざ自分で髪を染めてまでいたんだ、だとすると七番は薄いか。五か八か、どちらも殆ど同じ場所に立っている。違いといえば…時間だ!種族間の活動時間の差から、八番は早く始まり、五番は遅く始まる。その分終業時間も変わる。朝から待つんだとすれば、八番の方へ行くはずだ。俺たちも行くぞ」「はい!」朝方からこの時間にかけて濃くなる霧は、走るには深く、呼吸、視界ともに悪いなか貯蔵層へ進む。槽と隣接する工場をやっと視界に移す頃、どっと人の流れが増える。「工場の終業時間だ、急ぐぞ」波に逆らうように道を進む。視界の端で飲まれそうになるカトレアを掴み、強引に抜ける。満たすのに抵抗のある空気を浅く吸い呼吸を整える。「忍び込むぞ。行けるか?」「はい、でもどうやって?」四方を通電フェンスで囲み、出入り口には警備員が幾らか控えていた。「問題ない、これを使え」そういって手渡したのは、人混みですった従業員表だった。「基本的にこいつらは他種族の見分けがつかない、だからそもそもこの手の識別表に顔をプリントしないんだ。それに種族表示だって、この霧で口を覆うのが普通なら、誰もまともに確認しない」「正面から行くのか、やはり人間は頭が回るな」「助手首にするぞ」深くフードをかぶらせ、乱暴に口元を布で巻いてやる。「これで行けるな」不服の目を向けてきたが、自身もフードを深くかぶり先に歩き出す。忘れ物をしたと言ったら、まともな確認も無しに通された。

 梯子を前に首を曲げていた。最新型の八番貯蔵槽は他の槽と比べ最大で2倍ほどの大きさがある。それはそこの広さもそうだが、それ以上に縦に大きい。「これの、登るのか?」「ああ、それしかなかろう。ひっそりと死ぬのも大変という物だ。」「縁起でもない事言わないでよ、あんたが先に行きなさいよ。」「なんだ、怖いのか?」その問いにカトレアはフードを深く被る。「なら待っててもかまないぞ」「うっさいわね、怖い訳ないじゃない、いいから早く行きなさいよ」背を押されるままに、梯子に手を掛け、登り始める。「馬鹿ね、スカート履いてんのよ…」「なーんだ誰がお前のパンツなんて見るかよ」「聞いてんじゃないわよ、早く上りなさい!」


 強い風に吹かれながら最後の段に手をかける。ゆっくりと登り切り、カトレアを引き上げ、槽を覗き込む「いない…わね、よかった。」点検用ハッチを開いた先には黄金色の液体が並々と注がれ、そこを透かしていた。「よかった…だと、忘れたのか彼女はここじゃないどこかで自殺するつもりだ。何を見落とした、どこで間違った、考えろ!」返事は聞こえてこない。

 昨日彼女が尋ねて来た時から全てを思い出す。彼女が尋ねてきたとき、足取りは遅かった、扉の前でも呼吸を整えていた。そんな彼女にこれだけの梯子が登れるか?半分ならまだしもこの高さは無理だ。それにこの時間帯は空気が悪い。席へついた時、紅茶を飲まなかった。アゲリの紅茶だ、あんなもの、その道に明るくないと知らないような一品でなおかつ好んで飲んでいたお茶だ、あの状況で飲まないだけならまだしも、アイスブレイクに話を持ちかける位はあっても良かった。ミルクの先入れについても何も口を挟まなかった。人間があのエルフを従者にしているくらいだ、この程度は知っているはず。だが触れさえしなかった…そもそもコーヒーも紅茶も断ったな。そもそもその類を飲む気が無かったのか。だとすればそれは何故だ…。

 置手紙も変だ、わざわざ朝でずとも、午後に抜け出すか、或いは他にも方法があるはずだ。

 朝でなくてはいけない理由があった…だから飲まなかったのか、カフェインを避けるためか?それは考えすぎか…。だが、仮にそうならばやはり理由はなんだ…。昼から夜は空気が悪い。彼女は肺が弱かった、だから朝か。では何故それでも下見をするような事をした。彼女は足元を眺めていた。それも話が聞こえなくなるほどに。足元…ここは元々集合墓地があった場所か!確かに墓石は移されたが、骨はまだこの地下に残されている。「だから”墓石に刻まれるのみ”なのか…。すまんなカトレア、恐らくエリィゼはもう死んでる。それも今朝な。だから遺体も残ってるか怪しい」座り込んだまま震えた手で足をつかみ訴える「そんなはずは…ないよね?実はその推理も間違ってて、家に帰ったら待ってるとか、事務所に隠れてるとか、そういうのでしょ…ねえそうって言いなさいよ…探偵なら解決して見せなさいよ!」「すまんな、一応確認はしてみよう、こんなもの単なる推理でしかない。」梯子に足を掛け降りる。暫くしてついてきたカトレアが、行きのように服装を気にすることは無かった。


 五番槽ーーー


 前の槽の半分ほどの高さを重い足取りで登る。中を覗き込むとそこには。ロケットのついたペンダントだけが沈んでいた。彼女が事務所を尋ねたとき着けていた見覚えのあるものだった。「なんで、私を置いていくのよ…私は貴方といられればそれで、良かったのに、別にこの恋が叶わなくても、ただ一緒にいられればそれだけで…」取りつかれたようにふらりと槽へ足を踏み出す。咄嗟に腕を伸ばし、寸での所で捕まえるが、カトレアはうなだれたまま、ゆらゆらと腕の先でぶら下がる。勢いをつけ体を持ち上げる。なされるがまま、舞った体は床に叩きつけられる。体を起こしフードをとると、虚ろな目をし、小さく彼女の名前を呟いていた。「なあ、今日はもう帰ろう」返事の無い彼女を抱き上げ梯子を降りる。従業員の群れに乗り、槽を後にする。霧を抜けるころには、それぞれ自分で歩いていた。「すまなかったな」「いいわよ別に、本当なら、私が守らなくちゃ行けなかったのに」流す涙を拭わず、亡霊のように歩く。寒夜の潮風が二人の熱を海へと運んでいく。「今日は家に来い、そうでもしないとすぐにでも死んじまいそうだ」一人にすることは、出来なかった。

 

 カトレアを連れ、事務所の戸を開く。彼女が後から中へ入ると、正面に立つソファに掛けられたままのブランケットに歩み寄り、手に取る。枯らすほど泣いた瞳を潤ませながら、部屋の隅に座り込み、それを抱きしめたまま夜が明けた。夜更けまですすり泣く声が聞こえた。



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