月下、滴る人魚姫
きっと、彼女は人魚姫なのだろう。
満天の星空の下、幼いシルエットが凪いだ海を横切る。舞うかの如く、優雅に。情熱的に。美しく。
その時、俺は───────。
…………。
覚醒の瞬間、それは海中から水面へと浮上するときの感覚にどこか似ていて。
息を吸って伸びをする。窓から射し込む少し強い光が朝を告げ、四肢五臓六腑が一日の始まりを自覚する。
コップ一杯の水を飲み干し、渇いた喉を潤す。それからてきぱきと登校の支度を進める。部活の朝練があるため、遅れるわけにはいかないのだ。
「あっ、おはよう凪」
「んっ……おはよー」
寝ぼけ眼を擦りながら階段を下りてくる少女──否、幼女という表現の方が正しいだろう──この子は俺の年の離れた妹という訳ではない。
二日前……穏やかな土曜日の朝に、唐突な便りと共に彼女は俺の前に現れた。
◇◆◇◆◇◆◇
『容姿端麗なあなたの姉 より
突然の話でゴメンなんだけど、子どもが一人もうすぐそっちの家に着くと思うから、しばらく一緒に暮らしてくれない?』
なんだこの手紙は。ふらふらと日本中を彷徨している姉から久しぶりに連絡が来たと思ったら、初っ端からこの内容である。すぐにでも破り捨てたい衝動に駆られるが、押し留める。
『アンタのことだから、ここらでイラッとしてるだろうけど。今回のはマジのお願いだから。俗に言う一生のお願いってヤツだから。』
「はあ……」
なにやら大事な話であるらしい。一生のお願いはずっと前にお使いの代理で消費したはずだが。我が姉は転生者なのか?
『人ひとり増えるならお金も掛かると思うし、もろもろの費用の概算+αでたくさんお金送っておくよん』
「サンキューアネキ。このお願いは我が威信にかけて完遂する」
資金援助は非常にありがたい。最近はずっと金欠気味で困っていたのだ。
我が家、阿澄家には俺しか住んでいない。
先述の姉は日本中を、そして両親は世界中を旅している。この親ありてこの姉あり。
光熱費水道代、その他もろもろ諸費用はどうやってか(本当にどうやっているんだ……?)両親が払っているようだが、食費などは決して多いとは言えない仕送りでやりくりせねばならず、趣味に回すお金はほとんど無い、という高校生男子には苦しい状況が続いていたのである。
『ということでよろしく〜
蒼へ
p.s:いくら女の子に飢えていてもその子に手を出さないように! お姉さんとの約束だぞ??』
「はぁ〜〜??」
仮に。仮にだが、俺が彼女無しの灰色学園生活を絶賛過ごし中の学生だとして、同じ家に住む────文章から察するに────異性とはいえ“子ども”に欲情することがあろうか、いや無い。あまつさえ手を出すとか、人間失格である。恥の多い生涯というやつである。
というか、アネキも彼氏なんていたこと無かっただろ……と思ったが、どうなのだろう。旅先で出会いがあったのかもしれない。見た目だけは気を使っていたからな……などと、割と真剣に考えていたら、呼び鈴が鳴った。
「はーい?」
すぐさま玄関に向かい、扉を開ける。すると……
「あ、あわわ……阿澄、蒼さんで合ってますでしょうか」
可愛らしい生物があわあわしていた。
左右で束ねられた穢れのない白い髪は肩ほどまであり、俺の胸の下くらいの低身長に、どこか不安そうにこちらを見上げる、透き通った空色の瞳。真っ白なワンピースが風に吹かれて、いたずらに揺れる。小動物を思わせるその様に、非常に庇護欲を掻き立てられる。
「……あぁ、そうだよ。もしかして君が姉が言っていた子かな?」
「はい、恐らく……。しばらくこの家でお世話になるようにって……」
「そうか、改めて俺は蒼。これからよろしくな」
恐怖心を抱かれないよう、努めて笑顔で話しかける。
「わ、私は凪ですっ。よろしくお願いします!」
怯えたように、上ずった声で名乗る少女。なぜだ……
◇◆◇◆◇◆◇
それから二日。そろそろ彼女も家に馴染んできた頃だろう。
「それじゃ、学校に行ってくるからお留守番よろしくね」
爽やか笑顔でサムズアップ。
「は、はい。行ってらっしゃいです」
壁に半分体を隠して、おどおど。なぜなのか……
渚見高校。平均して学力が高いわけでもなく、スポーツ名門校というわけでもないが、ある理由からこの学校、含めこの町は有名である。というのも……
「……だし、だから綾もちょっと頑張れば……」
「いやいや、私なんて……」
談笑しながら俺の前を通り過ぎる女子二人。すっかり夏の装いになった制服から見える、少しだけ焼けた肌。そこにはくっきりとした鱗が生えている。
山と海に囲まれた町、渚見。この町は、二十数年前に突如として生まれてきた“有鱗人”を積極的に受け入れ、盛んに研究などを行う、いわば有鱗人特区である。
なんでも、俺たちは人魚と交わった人間達の子孫だとかいう噂。ここは人魚伝説縁の地だと聞くし、観光宣伝などの面で旨みがある、などの様々な事情もあったりするのだろう。
外見的な変化に加え、人間とは肉体的にも違いがある。それは主に水中活動に関係するものだ。そしてそれは、俺の部活に非常に大きな関わりを持っている。
「そうきちー、今日の朝練どうだった? 少しは泳ぎも速くなった?」
「どうって、いつも通りだよ。そういう真姫奈は、きっと速くなったんだろうな」
「えへへ、あったりー」
そう言って、はつらつとした笑顔を浮かべるのは、俺の幼なじみである汐見 真姫奈だ。俺と同じ部に所属する、エース的存在である彼女は、整った容姿に加え、高い知性に控えめな態度で、校内の生徒から男女問わず慕われているという、が……
「そうきちよ、そんなんじゃ一生私には追い付けないぞー」
つんつん、つんつん。
一切の躊躇なく身体をつついてくるその姿からは、他の人から聞いたような印象は受けない。淑やかさなんて何処へやら。俺にとって彼女は、まさに仲のいい友人である。
「もうすぐ朝のホームルームだ、教室に向かうぞ」
「ういうい、それじゃ急ぎますかー」
俺の手を取り、走り出す彼女。長い黒髪が陽の光を反射して煌めく。
「教室の近くでは手を離せよ!」
まったく、こいつに振り回されている時はなんだかんだ楽しいから厄介だ。
今日もまた、俺は太陽の引力に引っ張られるままである。
全校生徒の九割以上が有鱗人であるこの学校でも、当然ながら授業や部活は他の学校と同様に行われる。
すっかり茜色に染まった空。部活終わり、放課後の時間を共有した友人と話しながら帰路につく。
「でよでよ、この前気分で選んで買ったゲームあるじゃん、あれが意外に面白くて、最近徹夜で進めてるんだよなー」
「ああ、あれね。ふむふむ」
適当に相槌を打ちながら、今日の晩ご飯のことを考える。凪も待ってるだろうし、早く作らないとな……
「…………なんだか上の空だな、もしかして女の事でも考えているのか?」
「んなわけねーだろ。浪一の思考パターンが誰にでも当てはまると思うな」
と返しつつも、二分の一、いや四分の一は当たっているな、と友人の洞察力に感服する。
「いやはや、それは些か狭量な考えと言わざるを得ないだろう我が友よ。世の中の本質は金と酒、そしてパァトス! 故に人は最終的にはエロースに帰結するのだ!」
「お前も俺と同じ十七歳だろ、まったく。適当な生き方は楽しそうでなによりだよ」
気取ったような言い方がちょっとイラッとしたので、こちらは皮肉で返す。もしかしたらこいつは、本当に女の事しか考えていないのかもしれない。
「それじゃ、俺ん家こっちだから」
「おう! じゃあな蒼!」
左右に分かれる道、軽く手を振って友人と別れる。
「……晩ご飯、何作ろうかな」
家に着く頃には空の大部分が闇色に移り変わっており、肌を撫でる風が冷たく感じる。
「……ん?」
玄関に鍵が掛かっていない。家にいるときには、必ず掛けているようにと凪には言っておいたはずだが。
「凪ー?」
呼び掛けてみるも、明かりの灯らぬ家を侵す闇は何の返事も返さない。
嫌な予感がする。
そう思った次の瞬間、俺は駆け出していた。
夏と言えど、吹き付ける夜風は素肌には厳しい。が、そんな瑣末なことを気にしている余裕などなかった。
少し立ち止まって、周りを見渡す。すると、
「あれ、どうしたのそうきち、そんなに慌てて」
意外な人物と目が合った。
「こんな時間に珍しいな、真姫奈。……子どもを探しているんだ、小学生くらいの白髪の子」
「そういえば、さっき海の方にそんな子が歩いていったと思うけど……」
海。俺の家からも近い場所である。
「ありがとう、そっちを探してみる!」
「えっ、一体なにがあったのよー」
「後で話す!」
海の方角へ走り出そうとする。だが、そんな俺を真姫奈が呼びとめる。
「私もここら辺探すから!」
「いいのか? わざわざ付き合わなくてもいいんだぞ?」
「いいの、どうせコンビニの帰りだし」
「…………助かる。だけど真姫奈も女の子だ。くれぐれも気を付けてくれよ」
そう言うと、彼女ははにかむように笑い。
「それじゃ、後できっちり話してもらうからね!」
満天の星空の下、凪いだ海を……
「♪♪」
舞うように横切る凪は、さながら一枚の名画のようにとても美しかった。
水に濡れて重くなったワンピースを意にも介さず、鼻歌すら奏でながら泳ぐ彼女は、どこまでも自由で。
だが、そんな光景を目にできたのは一瞬。呆然と立ち尽くす俺の姿を視認するやいなや、その表情が一瞬にして引きつる。
「あの、えっと、これはですね……」
きっと怒られると思ったのだろう。遅々たる泳ぎで砂浜まで戻ってきた凪は、まるで咎められる兎のよう。
もちろん怒りもある。が、今はどうでもよかった。
普段より小さく感じる身体を抱き締める。
「っ?!」
「安心した。何か事件にでも巻き込まれたかと……」
最初は驚いていたが、俺が本気で心配していたのを感じたのか、抱擁を落ち着いて受け入れる凪。
安堵の気持ちと、もう一つ。
「なぁ、凪……」
アクアマリンの瞳を真っすぐ見つめ、高鳴る鼓動を感じながら、俺は────。
やっはろー! 作者の由希です。
あなたは夏は好きですか? 私は大好きです。
この作品は、私のエモーショナル100%でできています。楽しんでいってくだされば幸いです!
……あっ、イラストは常時募集中ですよ! もしいただけたならモチベーションが急上昇します。すっごい嬉しいです!
それでは、また次話で!