ありんこものっぽ先生もモヤモヤしていた話
お盆明けに、後期の夏期講習が一週間だけ予定されていた。菜摘は家族旅行に行くということで、友里は一人で申し込みをした。数学の講習申し込みは友里だけだった。マンツーマンかぁ、友里絶好のチャンスだ、と菜摘は無責任に言うけど、どうしようもないわよね、と有里は思った。菜摘が直接聞いて彼女持ちじゃないことまで確認してくれたけど、そういう問題じゃないよ。
淡々と後期の夏期講習は進んだ。幸博は一生懸命教えたし、友里もがんばって勉強した。でも特段変わったことは起こらず、最終日を迎えた。
今日で講習も最後だな、と幸博は思った。結構、岡山での生活は忙しかったけど楽しかったな。完全に両親や友人達と切り離されて一ヶ月過ごすというのは、生まれて初めてだったが、新しい人間関係もできたし有意義だった。叔父も明後日退院するし、それを見届けてから東京に帰ろう。
今日で幸博先生ともお別れだな、と友里は思った。数学徹底的に苦手だったけど、随分克服できたな。教え方が上手だったからなぁ。それだけじゃなくて、幸博先生にいいとこ見せたかったし……あれ?うん、まあ、そういうことよね。そうね、連絡先くらい聞いてもいいわよね……
「幸博先生、ID教えてもらえますか?また質問したいこと出てくると思うし」
授業が終わった直後、有里は思い切って幸博に言った。もちろんいいよ、という答えだった。IDを交換した。有里はお礼を言ってから塾を出て帰途についた。
「で、なんにもなかったわけ?!やっちもない(しょうもない)!」
菜摘が有里に怒る。あんなに私が頑張ったのに、有里はもっと積極的にならないとおえん(ダメ)。
なんにもなかったわけじゃないよ、とは友里は菜摘にも言えなかった。新学期に入っても、毎日幸博先生とメッセージをやり取りしているなんて言えない。いつ壊れるかもわからない関係、遠距離恋愛よりもさらにもろい関係、でもどんどん友里にとっては大切になっている相手だから。
寝る前に日その日のできごとについて、スマートフォンの画面上で幸博先生とやり取りするのが、友里にとって一日で一番楽しみな時間になっていた。日々の小さな悩みにも幸博先生は親身になってレスを返してくれる。夏期講習の時と一緒だった。時々、声も聞きたくなって、有里から電話をすることもあった。他愛もない話しかできなかったが、幸博先生の声を聞くだけで有里は安心した。でも、これじゃ完全に遠距離片想いね、有里は溜め息をついた。
幸博にとっても、有里とのメッセージのやり取りは欠かせないものになっていた。将来どうするのか、なかなか本音で相談できる人は周囲にいない。所属するゼミの先生も自分自身の世界以外は疎い。自分自身も関わっている世界が狭く閉塞感があった。そんな状態で無邪気なやり取りができる友里の存在は、幸博にとってだんだん大きなものになっていった。三週間弱のバイト先生の大学生と、生徒の女子高生の関係だから、これ以上踏み込めないしな、どうしたらいいのかな。鶴形山で写したツーショット写真の中の有里を見ながら、幸博は天を仰いでふうっと大きく息を吐き出した。