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稟と屋上にいた間、目撃者は誰もいなかったようでそこに関してはとてもとても安心している。
ただそのまま授業に出るのもバカらしくて、というか恥ずかしいやら、そもそも制服が汚れまくっているやらで出れなかった。
なので稟についていこうとしたら、大丈夫、とだけ言って去ってしまった。しょうがないので自分はこっそり家に帰り部屋にこもってしまうことにする。
不安があるとするなら、それは、明日稟に会えるかどうか。不安なまま布団の中でスマホでもいじっている。残念ながら話す相手のいない自分にとってコイツは無用の長物、暇つぶしくらいにしか使えないもんだった。
――そういえば、稟って携帯持ってんのかな。
流石に持っているだろう。うーん携帯番号ぐらいどっかのタイミングで聞いておけばよかった。いや、それさえも稟に対して踏み出せなかった証拠か……。
結局、そのまま布団の中で寝てしまった。目覚めたのは夜中の三時で、両親が寝静まる中食卓に置いてあるラップのかけられた鯖の味噌煮を食べておいた。息子、いや娘と話さなくなっても一時も忘れたことのない両親。
いや、今はやめておこう。明日、いや今日から学校は戦場になるだろうから。
不安だった、稟が学校に来るかどうかということは杞憂だった。今までと何も変わらず、当たり前のように稟は登校した。
もしかしたら昨日のことはすべて自分の夢だったのではないかと思うほど普通の状態であった。
「そう、だからスチームパンクというのはジャンルとして新しいからまだ新しい要素を取り入れていく余裕があるの。他の、例えばサイバーパンクとかだったらこうも柔軟にはいかないでしょうね。だから歴史改変要素とかが薄くても別に問題は無いのよ」
でも二人で階段に座り話している分には違いは大きかった。いつもより饒舌である。いつもの三倍は口が動く。とは言っても彼女が話しているのはSFの話らしく自分にはトンチンカンである。まあこれもこれから知っていけばいい。
「自分にはよくわからないよ」
「そういえば……小説、よまないの?」
「そうだねぇ、全然読まない」
「読む気も……?」
「今のところは無いかな」
「そう」
「自分は稟ほど頭良くないから」
傍から聞けばどうでもよい、つまらなさそうな会話。でも二人の顔は決して不快を示してはいない。どこか楽しそうにゆったりと過ごす。いつもの二人の時間。何となく歯車の狂っていた空気が元の心地いいものにもどっていた。
「そ う い え ば」
「……なに?」
「地がでているときみたいに、僕でもいいのよ」
こちらを少しからかうように話す。
一応、女になってからある程度、意識はしているのだが。
「いや、矯正中だから」
「そう、もったいないわね」
互いに、互いに押し付けない。
急ぐ必要はない、ゆっくり知っていけばいい。
狭量な社会が嫌いな自分たちの築く柔軟な関係性。
気に入っている。
正直な話、女にならなくてもいずれこういったものを求めていた気がする。
時は暮れ時、場所は廊下。
ウレタン樹脂素材の綺麗な床に夕暮れの赤い窓が写る。
そんなノスタルジックな雰囲気を微塵も感じさせないほど空気は凍っている。
ただ、凍っているのではない。凍った空気は爆発し冷気と熱気を併せた現実離れした大爆発が起こる一歩手前、互いに相手を量る余分の無い状況。
そう、いまこの場を支配する赤は闘争の赤だ。
「竜胆さん、なにか用かしら?」
最初に声を出したのは稟だった。
いつものように平坦に見えて相手への煽りを隠さない声色。
さあ、なにかあるなら言ってみろと言わんばかりの態度。
「お友達が味方してくれてうれしかったのかな」
言葉を用いた攻撃。そのためのジャブ。
竜胆の言葉は疑問の体でありながら、明確な嘲笑を持っていた。
「ええ、そうね。あなたの後ろの無駄な取り巻きとは違うわ」
竜胆の後ろに控える少女たち二人は稟の言葉に何か言いたそうに動くが竜胆に抑えられる。
「へぇ、昨日までとは大違い。まったくどこからそんな強がりがかとも思ったけど……サンドバックもいやになったってわけ……」
「まさか……蚊がうるさい程度なら無視しておこうかと思ったけど、少し誤解しているようだから教えてあげようと思って」
もはや両者の間に様子見などといったものは無くただ見えない刀の応酬があるだけだ。そこに加わりたいという思いがありながらも自分は一歩踏み出せずにいる。
「……アンタ、ほんとに勘違いしてんのね」
「勘違いかどうかはわからないのでは?」
その瞬間であった、見えなかったはずの攻防が現実のものとなったのは。
竜胆麗華は大きく足を上げ稟の腹を蹴ったのだ。空手を習っていただけあってそれはそれは綺麗でほれぼれする動きであった。
――だがそこで衝撃が走ったのはどちらだったか。
竜胆が一瞬動きを止めた。その一瞬の無防備に動いた者があったのだ稟だ。
鏡のようだ、と思ったのは錯覚だ。だが確かにその瞬間、稟は足を上げ竜胆を蹴り上げたのだ。その動きは鈍く、お世辞にも運動神経のいいと言えない彼女のものだった。
それでも致命的。ただ狩りを行っていただけの竜胆の慢心をついた蹴りは彼女の顎を狙う。
すんでのところで上体を揺らした結果、蹴りは竜胆の顎先を掠めていくだけに終わった。
だが、この瞬間彼女の中の慢心は無くなり稟のことを睨む。もはや獲物ではなく敵として。
「……っと」
蹴りを放った側である稟がバランスを崩し倒れそうになったのを後ろからささえる。驚きの連続であったが咄嗟に行動できたのを褒めてほしい。
「あんた、なにいれてんだ」
竜胆がつぶやいた。それに応じるように稟はシャツのボタンを外しだした。少し戦場的な光景に目を細めてしまう。しかし、すぐに目を開けた。それは破廉恥な理由からではなく、彼女が腰に黒い何かを装着していたからだ。
「衝撃吸収の効果を持ったものだけど、ええ痛みは無くなったわね本当に」
「ちっ、変なものを……」
にらみ合いは硬直し視界は赤が覆う。
「……はぁ、今日は帰るぞ」
「……で、でも」
「いいから……」
竜胆はそう言って取り巻きを従え帰っていくようだった。自分はとりあえずほっとしたのだが。
「あら、逃げかえるの?」
なぜかまだ煽り続けるヤツがいた。
いや流石にやめた方が良いと、稟を引っ張っていこうとしたところ。
「ああ、今日はな……」
それっきり本当に竜胆は行ってしまった。
「……」
「……」
「……はぁ! さすがに心臓が止まるかと思ったわ!」
稟が大きく息を吐いたかと思うと、そんなことを言った。
「いや、それはこっちのセリフだっていう話よ」
「まあ、いいじゃない」
と彼女は微笑む。まったくなにがいいのかわからないが、彼女に助けられた形になるのは確かなのでうなずいておく。
「そういえばなんで、そんなものを持っているの?」
「Amaz○nよ」
「いや方法ではなく理由を聞いたんだけど」
「まあ、最終的に暴力に訴えられたときに備えてね……」
蹴り返したことには突っ込まないでおこう。
「それにしても三十分近く話してたのね。もう帰りましょうか」
「そうだね」
彼女と別れるそのことに寂しさを持った時だった。
「あっ、明日の土曜日空いてる?」
「空いてるけど?」
彼女からスケジュールを聞かれるなんて珍しい経験だったので意図が分らず少し混乱してしまう。いや言い訳は良くない、自分がそういった経験に乏しいからだ。
「そう、じゃあ買い物に行きましょう」
「買い物って、何を?」
「――秘密兵器」