サ
水に浸り冷たく、重くなってしまったスカートをはらう。汚れはほとんどついていなかったが、まあ軽い癖のようなものだ。
自分を押しのけて走っていった稟を追うことにする。自分は何をするべきかまだ決めないままに。
階段を昇る。稟の行った場所には一つしか心当たりはない、もし外れていたら、自分は彼女を見つけることはできないだろう。でも、確信があった。
問い
……自分は社会を受け入れることはできるか?
――無理だ、自分のような狭量な人間はこの社会の苦しさを我慢できない。〃普通の女子〃に混じることなんて出来ない。ずけずけと踏み込む女の考えに自分は馴染めない。もっと落ち着いたものが欲しい。
……では社会につぶされないように竜胆たちを眺めているのか?
――そうだ、それが正しい。でも、自分は、僕は、その正しさに飽き飽きしている。そんなもの結局は社会の中にいるのと大差なんてない。
……そもそも最初にゆさぶりをかけたのは誰だ?
――問うまでもない、稟だ。
……なぜ彼女はそんなことをした。
――そんなのわからない。自分は僕ではない。彼女の考えなんて僕では思いもつかない。と、言い訳した。本当は最初からわかっていた。彼女は自衛の考えなんてない。彼女自身を守るためで無いと言うなら、それは、僕のためだろう。
三階にたどりつく、この上に彼女はいてくれるだろうか。
……では、自分はどうするべきか?
――この社会が嫌いだ。周りに馴染めない。馴染む気も起きない。そしてそれはこの社会もそうだ。この社会だって、男から女になった変人なんて易々とは受け入れてくれない。少数派は多数派になれない、どちらかが存在する限り、もう一方は必ず生まれる。それは個性とも呼べるが、呪いでもある。
――この社会を否定する。そんな力も、知恵も、計画もないけど僕の認めるものになりたい。彼女はそこに来てくれるだろうか?
屋上前につく、そこには誰もいなかった。もちろん探し人は稟だ。だがそこで、まだ行き先があることに気付く。普通なら鍵がかかっているはずだ。
奥の扉に手をかける。いつだったか稟はピッキングできるようなことを言っていた。彼女はその道具を持っているようだったし、その技術もあるのだろう、ならあとは意志だけだ。
ドアノブをひねり押す。ビクともしないはずの扉は抵抗なく開いた。
青だった。
街にいけばこの学校より高い建物なんていくらでもあるだろう。でもこのあたりは住宅街で、学校より高い建物なんて数えるほどしかなかった。なので空がよく見えた。雲一つない純粋な蒼天だった。
だから屋上に出た時に視界を覆ったものは青だった。と言ってもおかしくは無いと思う。
そして、視線を落とすと、屋上の真ん中に一人の少女がいた。稟だった。
「稟」
「――っ、こないで!」
彼女の叫び。それは口から外界に伝播するが。それを発したのは形而上的な魂だ。そう思った、思えるような叫びだった。
そしてその悲痛さから。彼女の真意を推し量る。間違えであってほしいが、彼女はとても王道的なことを。いじめとそれを巡る諸問題の行きつく先、バットエンドの一つ、首つりと同じくらいにポピュラーな方法。……飛び降り自殺。間違えであってほしい。
「なにを、する気?」
自分の口から発せられた声は彼女の物とは違い震えているのがわかった。これではまるで、あべこべだ。
「……輪廻転生って知ってる?」
「うん」
インド思想の有名なものの一つだ。
「私はソレを信じることにしたわ、またどこかの生で会いましょう。できれば……もっと……寛容な世界で……」
自分は衝撃だった。彼女がそんな思想を信じることに。彼女は頭がいい、そんな不確かなものを信じるものなのだろうかと。そこで逆説的なことに気付く。彼女は頭がいい、だからそんなものを肯定する考えをいくらでも思い浮かべれる。通常ならそんなもの否定する冷静さがあったのだろう。でも、今の彼女には……。
「なんで……」
なぜ? そんなこと問うまでもないことじゃないか。社会の攻撃は彼女を痛めつけた。大丈夫だと信じていたのは、信じたかったのは自分だけ。
「だって……だって……私は……」
言葉は重く、続くものは出てこない。その間は針山にいるかのようにチクチクと心を刺す。自分だけではない彼女の心もまた同じだ。
「私は……」
今にも飛び出してしまいたかった。今すぐにでも彼女を止めこの時間を終わらせたい。でも、それでどうなると言うんだ。自分は彼女に言葉を与えれない。社会に諦観し傍観することを良しとする自分には。
「私は――あなたにまで弱く見られたら、見られてしまったから――もう、いいや」
少ないやり取りでもわかることはある。それはきっと彼女の本気の言葉だったから。SOSを越えてしまった崖っぷちのものでもう崩れる寸前なんだとしてもそれは本気だったのだから。
「もういいから、ここからサヨナラしなきゃ」
「稟……」
そして彼女のことを自分は真に理解した。
そうだ、最初から彼女は自分を気にしていた。
自分が社会を嫌い一歩踏み出すのも躊躇するなか、彼女は毅然にその一歩を踏み出した。
自分だってうだうだと言いながら彼女との関係を気に入っていた。
それを友人というのなら、それは一つの社会なのかもしれない。
なら――
「――稟」
考えが決まったなら、あとは速かった。
声をかけるように、笑顔で、稟にタックルした。
「――はぁ?」
素に戻った彼女の素っ頓狂な声。
だが気にしない今はただ1点のみに集中する。
元男のせいか自分は身体能力は平均より高い。少なくとも帰宅部で本ばかり読んでいる彼女よりは。
そんなわけで稟に突撃した自分はそのままゴロゴロと彼女と床に転げる。少しばかり痛いだろうが許してほしい。
びしょ濡れの稟とともに自分も濡れてしまう、床を転がったため汚れてしまう。でも気にしない。
「――稟」
「なによ……痛いわ……」
伝えたい想いはあるのに、伝えるべき言葉が出ない。
言葉というのはそれほどに難しいものなのだ。でも、いまだけは言わなくてはならない。
「稟」
「だから、なに」
自分が稟を押し倒すような体制になって声をかける。
ここで伝えなくては再度自らの殻にこもり、そしてそれすら終わらせようとする彼女に伝えなくてはいけない。
「――稟、僕のために生きてほしいんだ」
「……えっ」
稟の瞳が驚きで開かれる。
「稟がもう自分で生きる理由を見つけれないなら。自己のうちにないなら僕にくれ」
「そんなのっ……」
「僕を憎み、恨み、嫉み、そして――」
そうだ自分のためではなく誰かのために生きるのなら、そこで生まれる感情はその誰かに向けられる。感情で殺されるならその方が良い。
「稟に生きてほしい。この言葉は呪いのようなものだけど、受け取ってくれないかな?」
「そんなの、怜は?」
「そのかわり、僕は稟がいいと言うまで稟に付き合おう。互いに互いが呪いをかける、そうして小さな社会を作る。この小さな社会で大きな社会から身を守る」
そうだ社会に課せられる呪い。息苦しいものだけど、もし稟が僕を友達と思ってくれるならそれは、約束と言うのかもしれない。
「そうだ、これは稟のためじゃない僕自身のためなんだ。僕一人じゃ周りにつぶされる。だから稟に仲間になってほしいんだ」
これも含めて自分の中に生きる理由を作れないなら外に作ってしまえばいい。共同体に迎合するためではなく、抗うため、共同体を作るんだ。
そうだ無いならば作ってしまえばいい。孤独であることは帰れなくても、孤独な人間が二人いれば何か違うかもしれない。それを稟といて学んだから。稟が踏み出してくれたから。今度は僕が踏み出す番だと思ったのだ。
沈黙の後、彼女はこくんと頭を縦に振った。
完結のめどが立ちましたので投稿を再開します。
お待たせした方々、遅くなりすいませんでした。