、
自分は今公園にいた。
朝6時まだ学校に行くには早い時間。朝練のある部活とかなら知らないが帰宅部の自分にとっては家でまだ寝れる時間である。
だが自分は両親と顔を合わせたくない、合わせれない。なので朝早くから学校に行く。のだが今日はイマイチ足が進まなかった。理由はもちろん昨日竜胆に言われたことだ。
小さな社会において、そこから外れた自分達。それを押しつぶす者達。
正しいのは彼女たちなんだろう。いくら時代が進んで公正と公平を目指したってより原始的な群れの保護という欲求によって邪魔なマイノリティーは排除される。
もし、もし自分が稟に「助けて」といわれたら自分はどうするのだろう。自分は彼女の味方をするのだろうか? 自分はそんなただ一言の後押しが欲しいだけではないか? 社会も学校もスクールカーストもいじめも竜胆も関係なく稟を守る。どうなんだろう……。でも今の自分はひどく臆病だ。自分が標的になる可能性を恐れて、稟が踏み込んでほしくないのではないかというのも恐れて。要するに今の関係性を崩したくないのだ。……その前に稟が崩れてしまうかもしれないのに。
ギコギコひとりでブランコに乗る。
徐々にその振れ幅は大きくなる。稟の行動がクラスに大きく波及したように。
――もうこのまま今日は休んでしまおうか?
考えが巡り、気持ち悪さも体を駆け巡った。
この気持ち悪さの正体は判っている罪悪感だ。
許してください、許してください。
稟を、竜胆を、見て見ぬふりをすることを許してください。
残念ながら自分は無宗教だ。どこかにこの祈りを聞き届けてくれる神はいるのだろうか。
なんて見苦しい。
結局、社会に溶け込めないと言いながら空気を読んでいる自分はどっちつかずの微妙な存在なのだ。
そう意味では稟が、竜胆が羨ましいのだ。
四年前、中学生になる前の春休みに自分は謎の高熱で倒れた。心配した両親は近くの病院へ連れて行った、すぐ入院することになったらしい。七日七晩、自分は熱にうなされていた。その間のことは覚えていない。ただ熱が引いて意識がはっきりとした頃になると何やら自分の身体に違和感を感じた。世界が大きく見えるし、なにやら太ったように体がフニャフニャする。
入院して二週間後、自分が女になったことを聞かされた。
両親は運び込まれ検査された時点で主治医に聞かされていたらしいが打ち明けるタイミングを窺っていたらしい。
さて、最初は驚きはしたものの別にどうということは無かった。
だが鏡に映る自分を見て、日に日に膨らみが確かなものとなっていく乳房をさわって、少し高くなった自分の声を聴いて。
――自分は恐怖したのだ。
人間の細胞には透過性があるし、何年かしたら体の全ての細胞が入れ替わるらしい。そんな不確かな身体を信頼しきっていたのだ。でも許してほしいまだ小学校を出たばかりのガキだったのだ。そんな奴に数年後のあなたはまた別物ですよなんて理解できないし、ましてやいきなり性別が変わってしまったらその不確かさに恐怖してもしょうがないだろう。
そんな一歩先は真っ暗な奈落かもしれないと知った自分は徐々にその恐怖を当たり散らすようになった。退院して少し経った頃から、自分が日常生活を歩み出したら自分の不確かさを強く感じてしまったんだろう。一番みぢかだった両親に八つ当たりをした。「なんでこんな不確かな体に産んだんだ!」なんて最低最悪な発言もした。そうしてギクシャクした結果、家にも帰らないようになった。今思うと襲われなかったのは奇跡だった。
実はその時、病院から月一でカウンセリングに通うように言われていた。もちろん荒れていた自分は無視したが、当時の担当医がとても熱心な先生で自分を追っかけて話そうとした。結局、自分は根負けして彼女と話した。それでも自分が完全に落ち着くのに一年近くかかった。そして家に帰るようになったのだが、そうなると今度は自分が両親に対してしたことが負い目になりまともにしゃべれなくなった。そのままずるずると高校生になってしまった。
家族という社会にも馴染めなくなってしまったのだ。
結局、どれだけ公園のブランコで祈っても救いの神は現れないし、なにかこの状況を打倒する案が出てくるわけでもなかった。
いつもよりだいぶ遅い登校、HRギリギリに廊下を歩いていた。教室まであと10メートルというところで自分の右側、階段を昇る人影が見えた。それは稟だった。
彼女は重そうに机を持ちながら階段を上がっていった。その机に目がいく。
そこには、まあ、言葉に出すのもはばかれるような言葉が刻まれていた。そこには性的な内容が多かった。これは女子だろうな。女子というのは意外とこういった攻撃を多くする。それが効果的だとわかっているから。でも、稟に効くのだろうか? 彼女の顔を見ても自分には判断はつかなかった。彼女は自分に気付かなかったようでそのまま上に行ってしまった。
自分はそのままクラスに入る。何人かの視線がこちらを刺した。そういえばいつも教室には早くからいるので、こうやって登校を遅くすることになれていないことに気付く。竜胆と視線が合った。なにか言いたそうだった、いやもしかしたら自分が何かを言いたかったのかもしれない。
その後、稟は何も書かれていない綺麗な机をもって教室に帰ってきた。なんとか担当教諭より早く帰ってきたが、もし遅かったらどうなっていたのだろう。竜胆たちによるいじめが露見する確率はグンと上がっていただろう。そういった危険を伴うレベルで激化しているのだ。本当に自分が気付かなかっただけで、タバコの事件の後から始まっていたのだろう。
竜胆は稟にこの攻撃が効いていると言っていたが、終始ポーカーフェイスな稟に他の奴らは苛立ちを覚えているかもしれない。
なんにせよ、自分がこれからどうするか考えなくて行けない。
いつも通り、昼休みになると屋上前に行った。
だがいつもと違うところがあった、稟がこないのだ。いつも自分より先にくる稟がいない。お手洗いの可能性もあるので待ってはいたが自分が着いてから15分は経とうとしている。
嫌な可能性を考えた。考えてから稟を捜しに行くことに決めるのに時間はかからなかった。
まずは教室、いない。竜胆やとりまき達が楽しそうに昼休みを謳歌している。
図書室、いない。本棚の間を一列ずつしっかり二往復してみたがいなかった。
この二つと屋上前が稟のよくいるスポットだ。もしかして学校をさぼって帰ったのかもしれないとも思う。一応、下駄箱に確認しに行くとまだ靴が入っていた。まだ校内にいるはずだ。
そこで一つ、古典的ないじめの方法を思い出す。ちょうど視線の先にその舞台があったからだ。自分はそこに入る。タイル敷きの廊下、洗面台、その奥にはボックス。
まあわかっている人も多いと思うがトイレだ。
その奥の個室は何やらゴテゴテしていた。モップ棒が絡まされ内側からは開かないようになっていた。もう嫌な予感ビンビンだが自分はその棒を外し扉を開ける。
「……あぁ……」
予想通り、稟がいた。彼女は便器の上に座り、上から水をかけられたのだろう、びしょ濡れだった。彼女の綺麗な髪は濡れ水をしたらせていた。
彼女の顔は泣いているように見えた。それはただ濡れているだけで涙かどうかはわからないが自分にはそう見えた。
稟が顔を上げる。眼が合った。自分は何も言えなかった。そうだ、いったい自分は何を言えばいいと言うのか。
「……っ……」
突として彼女は立ち上がるや否や自分を勢いよく押しのけて走り出していってしまった。自分はそのまま後ろに倒れこみ彼女が駆けていくのを見ることしかできなかった。床を濡らす水が自分の服にしみこみ尻が冷たくなった。
なぜ、なぜ自分は彼女が傷つかないと決めつけていたのか。
でも、でもさ稟、おまえの気持ちを伝えてくれるつもり……あるのかよ……。
授業の始まりを告げる鐘の音が鳴っていた。